アルバム

時折吹く強い風に、琴子は着慣れないスーツの、スカートの端を左手で押さえた。

右手のぬくもりをしっかりと握り締める。

3年前、直樹と琴子が琴美の両手を引いて歩いた時と同じく、桜の花びらが道路に張り付いていた。

「ママ、桜だよ」

琴美がむじゃきに笑いかける。

直樹に似たのか知的探求心の旺盛な琴美は、人や物の名前や構造を理解し記憶することに長けている反面、琴子に似て感情が豊かな面がある。

くるくると表情を変える琴美に、琴子はあきれ顔でつぶやいた。

「切り替えが早いのは、あたし似なのかしら」

「えっ、なぁに?」

「ううん、ごめんね、本当に卒園したんだなぁって」

「ママ、みーちゃんより泣くんだもんねぇ!」

「…みーちゃんだって泣いてたじゃない」

「みーちゃんにも色々あるんだもん」

「…とにかく」


琴子は、先ほどの卒園式を思い出していた。

人見知りをして登園を嫌がった入学式。

だが琴美はすぐに慣れ、入園から一週間もしないうちに十数人の友達を連れて帰宅した。

琴子はあまりの人数に腰を抜かしたが、一方紀子は手放しで喜んだ。

男の子達に混じって、子供だけでカブトムシを取りに遠くまで出かけた時、いつもは論理的に諭す直樹が、初めて琴美に声を荒げた。

琴子の目の前で、他の誰かに、本気の怒りをあらわにしたのは二度目だったので、琴子は少なからず驚いた。

そして、何万回目かの一目ぼれをした。

琴美はすくすくと育ち、いつの間にか琴子と口げんかまでするようになった。

そう思うだけで、琴子の目に溢れてくるものがある。


「本当に、おめでとう!みーちゃんもいよいよ小学生ね…」

琴子が目元をぬぐうと、琴美は繋いだ手をぶんぶんと振った。

「ママ、また泣かないでよー!」

「ここに入江くんがいたら…」

「ママったら、すぐパパのこと考えるんだから」

えへへと照れてごまかすと、琴子はふと小さな疑問が思い浮かんだ。

「今の幼稚園児事情はどうなってるのかしら」

「事情?」

「好きな子…よしやくんとかっ」

よくわからないという風にぽかんと琴子の顔を見上げていた琴美が、「ああ」とうなずいた。

「幼稚園の時は忘れちゃったけどね、ママにとって、"卒業"って好きな人の一大イベントだったの」

「うう〜ん…あのね、振られたの」

「そう、ふられ…振られた!?」

握った小さなこぶしをふるふると震わせて琴美が続ける。

「よしやくんに、小学校が別になるから付き合えないって言われたの!」

「…付き合うって…。それ絶対入江くんに言っちゃダメよ」

「なんで?」

「なんでもよ」

琴子も幼稚園の時に好きな男の子がいた。でも当然ながら、幼かったから、よく覚えていない。思うより王子様ではなかったから、一日で振ったことくらいしか。

「でもね、付き合ってみなきゃわからないでしょ!?」

「うーん、そうねぇ」

琴美は琴子に似て、恋愛は「押して押して押しまくる」タイプのようだ。

「だから言ってやったの!よくかんがえもしないでうじうじしてる人と付き合うなんて取り消すわ!あんたはしょせんここらへんで二番目の学校止まりよね、って」

「うわああ…。イケイケでアタックするとこまではあたしに似たのに、入江くんの血がみーちゃんを罵倒させたのね…」


角を曲がれば、家に着く。

琴美は4月から、斗南小学校に入学することになっていた。

この道を、今度は小学校へと向かう。今度は何十人の友達を連れてくるのか、琴子は恐れながらも楽しみだった。

「そうだ、ママ、ずっと前にね、パパの秘密、おしえてくれるって言ってたの、覚えてる?」

繋いだ手を引っ張って、琴美が屈託のない笑顔で琴子を見上げる。

「ああ、そうだねえ。もうみーちゃんも小学生だし、今日は卒園記念日だから、ないしょ、守れる?」

「守るよお!絶対!おくちちゃっく!」


「わ、かわいい!パパのいとことか?」

「それが入江くん」

「えええええ」

「かわいいわよねえ」

紀子から、直樹の幼少時代のアルバムを譲り受けた時、いつか自分の子供にも見せようと、琴子は思っていた。

琴子と直樹のベッドの上で、琴美が寝転がりながらキャッキャと笑い声を立てる。

「パパがこのアルバムをくれたの?」

「ううん、まさか!おばあちゃんよ」

琴美が足をばたつかせながらはしゃぐから、着ているピンクのワンピースのすそのレースがふわふわと揺れる。

「んもう、パンツ見えるわよ」

「はあい」


幼稚園に制服があると知った時の、紀子の落ち込みようは目も当てられなかった。

せめて帰宅したあとだけでもかわいらしい服をと、紀子は毎週のように琴美の服を購入した。家族はあきれていたが、琴子は、なにより琴美は喜んでいたし、気持ちがありがたくて拒否する理由がなかった。

「おひめさまみたいだねぇ」

「でも入江くんは男の子だったから、嫌…だったみたいよ」

「そうかあ、そうだねえ」

ふふふと二人、顔を見合わせて笑う。

「ママ、こんなとこパパにみっかったら怒られるよね」

興味深そうに、ページをめくっては感嘆の声を上げる琴美の頭を優しく撫でると、琴子はベッドの端から腰を上げた。

「だから、秘密よ。お茶もってくるね」


琴子が廊下に出た時、部屋にピピピと機械音が鳴った。

「あ、パパから電話だ。でていいー?」

「いいよおー」


琴美は、ごほんと一つ咳をすると、携帯電話を耳に当てた。

「もしもし入江くん?」

『…どっち?』

「どっちでしょうか〜?」

『…琴子』

「ぶっぶー、みーちゃんでしたあ」

琴子と琴美は、声がよく似ている。

あまりにもよく言われるため、特に直樹からの電話には少しかしこまって出る。

殆どの場合見抜かれて「パパだよ」と返されるが、時々騙されて「俺だけど」と言われるのが、琴美にはむずがゆいながらも嬉しいのだった。

『おめでとう。卒園式だったって』

「そうだよお!せっかく選ばれて発表したのに!」

『さすが、俺の娘だな』

「本当〜。ママに頭が似なくてほんっっとよかった!」

『ハハハ…』

「あ、ママ帰って来たよ」

『ん、かわって』

「はい、ママ」

お菓子の乗ったお盆をテーブルに置いて、琴子が琴美に手を伸ばす。
二つ折りの携帯は、琴美には重く扱いにくいようで、手を伸ばして渡そうとするが、琴美の手がすべり、携帯電話はゴトンと音を立てて床に落ちた。

「きゃあ」

「やだー!もう、壊れちゃうわよ」

「ごめんね、ママ」

「入江くん、耳大丈夫かな」

琴子が恐る恐る出ると、『ったく…』と直樹の呟きが聞こえた。

「もしもし、入江くん?ごめんね、うるさかったでしょ」

『おまえらは本当に騒々しい』

「あはは、ゴメン」

『…琴子、今日はサンキューな。行けなくてスマン』

「いいのよ。学会を潰すわけにはいかないもん」

『おまえらとおふくろならやりかねんな』

「ちょっと、計画立ててたみたいよ。パンダイの名前でなんとかなるとか」

『一企業が、どこをどうやったら学会が潰れるんだ』

「裕樹が新居に移る準備をぼちぼち始めだしたから、あんまり家にいなくって。頼りになるブレーンがいなくて、結局お流れに…」

『ああ、そうか』

「うん、明日にでも、好美ちゃん連れてきて正式に…」

『裕樹も結婚か』

「早いわよね」

『琴美も幼稚園を卒園したことだし』

「だし?」

『おれ、男の子がほしいんだよな』

「ええっ」

『今度もし子供が出来たら…』

「…たら?」

『琴美の時のことを考えると、悩むところなんだよな』

「え?どうかしたの?」

『引き抜きにあってる』

「ええええええ!」

再びアルバムに没頭していた琴美が、琴子の叫び声に驚いて顔を上げた。

「どうしたのママ」

「あはは、ごめんね。なんでもないの」

電話を外して琴美に微笑むと、琴子は窓際に移動した。

「あ、ごめん…それって」

『小児外科の権威のいる○○病院から、こないかと』

「すご、すごい…」

『俺がすごいのは当然だろ。そうなると、今以上に忙しくなるからな。もう、二度と琴美の時みたいなことは嫌だから』

「うん…ありがと、入江くん」

『まだおまえにしか話してないし、受けるかどうかもわからないから、お得意の妄想で大変な目にだけは合わせないでくれ』

「どういうことよ」

『…大学入試のおまもり事件』

「…ハイ」

『じゃ、その件はまた後で、今日22時過ぎ戻る』

「ん、わかった!気をつけてね!…ひゃ」

琴子は頭を押さえて、二度頭を振った。出窓にもたれて、体勢を整える。

『どうした?』

「ただの風邪だと思うんだけど、最近食欲なくて実は微熱も…でも今のはただの立ちくらみよ!大丈夫大丈夫」

『……おい』

「え?」

『薬飲んでねぇだろうな』

「ん、まだだけど」

『生理は』

「ちょっと遅れてるけど…。えっ、もしかして…」

『絶対薬は飲むな』

お腹を覗き込む。心当たりはあるけれど、思いつきもしなかった。

「お袋は」

「いらっしゃるけど…」

『行けるか?二人で』

「うん!あのね、みーちゃんも連れていっていい?」

『ああ』

「帰って来たら、報告するね。入江くんだーいすき!」

負けるまいと、琴美も琴子に駆け寄り叫ぶ。

「またママのらぶらぶびーむが始まったあ!みーちゃんもー!パパだいすきー!」

『電話元で叫ぶなって言ってんだろうが…切るぞ』

「はーい、じゃあね!」

「パパ、ばいばい」

琴子はお腹をそっと触りながら、確信めいたものを感じていた。

「みーちゃん、アルバムは終わり。おばあちゃんと、病院いくよ」

「ええっ!…みーちゃん、お腹痛くないよ?」

再びアルバムをめくる琴美から、おびえた返事が返ってくる。

「今日は、ママの病院」

「へえ〜」

「琴子ちゃん、みーちゃん、ケーキ食べない…あらアルバム!」

部屋を覗き込んだ紀子が、ベッドの上のアルバムに目を輝かせた。

「おかあさま、みーちゃんと病院に付き添ってもらえませんか?」

「みーちゃん、どうかしたのっ?どこか痛いの?大丈夫?」

「産婦人科に行けって、入江くんが」

顔を曇らせて心配そうに琴美を見つめていた紀子が、目を爛々と輝かせて琴子に詰め寄った。

「んまあ!!琴子ちゃん!大至急準備するわっ」

大変、どうしましょう、喜ばしいわあと軽やかなステップを刻みながら、紀子が下階へ消えた。

「ママ、大変なこと?」

ベッドから降りた琴美が、きょとんと琴子を見上げた。

「違うよ、いいことなの。病院を出るとき、きちんとお話するからね」

「いいこと?」

「そう」

「みーちゃん、琴子ちゃん、出掛けるわよ!」

浮き浮きとした紀子の声が響いた。

琴子は琴美ににこりと笑いかけると、ぽんぽんと頭を撫でた。

「はーい」

「おばあちゃん、みーちゃん、きららりんの靴履くの!」

琴美が、スカートを翻して玄関へ駆けていった。

2008年9月28日(12/29再up)

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あとがき(筆/掲載時)

記念日一作目は、「卒園」にひっかけて書きました。

琴美ちゃんは、琴子に似て恋愛に関しては小さな頃からアタックしそうだなあと思います。

でも入江くんの頭脳も譲り受けているから、変なところで冷静だったりもするかも。

幼稚園から彼氏。ちょっとおませさんに書いてみました。入江くんのツンは6割減くらいかな〜。

よかったら感想を聞かせてくださいね。

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