琴子との結婚式を決められた日から、生活は一変した。
沙穂子さんとのデートは、いわば仕事の一環だったから、デスクワークを早くに切り上げるのも容易かったが、今回はそうはいかない。
挙式・披露宴、そして旅行の時間を作るには、ただひたすらに机に向かい、部下に指示を出し、仕事の引継ぎをする。
いつもより一時間も二時間も早くに家を出て、夜中寝静まった我が家に戻る日が一週間続いていた。
タクシーを降り、チケットを手渡すと、二階に煌々と明かりのつく部屋がある。
視線を玄関に戻すと、扉の奥からも光がこぼれていた。
そっと玄関を開けると、ふんふんと能天気な鼻歌と共に、トントンと階段を下りる気配がした。
気配は俺に気づいたのか、階段を転げ落ちんばかりに近づいてくる。
タックルをかまされた時、長い髪の毛にかすかに、タバコとアルコールの香りがした。
「バカ」
体制を整え玄関を上がると、琴子が赤ら顔できゅうきゅうとネクタイを引っ張ってくる。本当にバカだこいつ。
「うわあん!入江くん!!遅かったねぇ!!」
力任せに緩められたネクタイが不憫で、俺は琴子の手を払うと、そのまま外したネクタイを琴子の肩にかけた。
琴子は自分の肩と俺を交互に見て、にやけた笑をこぼしている。相当出来上がっているようだ。
「ネクタイ」
いつの間にか琴子がぐちゃぐちゃと丸めたネクタイを奪い取ると、階段に足をかけた。明日も早い。
「ひっ久しぶりねっ…」
「何で泣いてんの。つうか酒くせー」
子供のように肩を丸めて涙を流したと思ったら、今度は踊りださんばかりに全身で喜びを表現している。
喜ぶようなことは言った覚えは無い。酔っ払いは放っておくに限る。
「今日はぁ〜、じんこと理美と独身最後の飲み会をしてきたの」
「それはそれは」
これは話が長くなるパターンだ、と、階段を更に進もうとした矢先、スーツをぐいと引っ張られた。
「だから!!今日は入江くんと寝るの」
飲み会というものに参加するようになった学生時代から、酔っ払いのとっぴな言動には多少は慣れていたつもりだったが甘かったようだ。
息を呑んで顔を覗き込むと、琴子は強いまなざしで俺を睨んでいた。
「見事に話が飛んだな…」
「あたしだって大人の女なんだから」
「は?」
どうせこいつの友達に何かを吹き込まれたんだろう。
琴子は、俺に対して気持ちをぶつけてくるわりに、一つ屋根の下、実力行使に出ることはしなかった。
そういうやつだから、こいつは。
「結婚前にHしてないのはおかしい!入江くんおかしいって!ふぅ…言われたの」
焚きつけて、まだ戸惑う琴子に酒を次々と勧め、にやにやと笑うあいつらの顔が目に浮かぶ。
女同士の猥談は、男同士のそれよりも、もっと下世話でえげつないと聞くが、それにしても…。
「あいつら、またとんでもないこと吹き込みやがって」
「だから、今日は入江くんと寝るの」
「…酔っ払い女」
「とにかく、第一弾としてぇー、一緒にシャワー浴びよ」
「やだ」
あえてひかないままのトリガーを、酒の勢いでひかされるのは意に反する。それも一方的に…。
俺は努めて冷静に続けた。
「お袋達にビデオとられでもしたらどーすんだよ」
「まだシャワーだけ?奥手ね、おにいちゃんたら」
「お袋の声色つかってんじゃねーよ!」
「って言われるくらいよ〜」
「…いいから部屋戻れ」
階段を進むと、背後で鼻のすする音が聞こえた。
「ずずっ…入江くん、やっぱ理美のいうとおりだ」
「は?」
これ以上何を吹き込まれたんだ。
振り返ると涙と鼻水でぐちゃぐちゃの琴子が仁王立ちしていた。汚い。
「たんぱく。あれ?たんぱくだったかな?エッチにきょーみのナイヒト。」
…俺は、トリガーを引くべきなんだろうか。
「やーい、たんぱくたんぱくー」
「…おい」
階段をかけおり、勢いのまま両腕で琴子を封じ込め、壁に掌をつく。ドン、と派手な音がした。
「黙れ」
すぐそばに、琴子のぬくもりがある。
顔を覗き見ると、息を呑み、視線をきょろきょろとせわしなく動かしていた。
だから、お前はそういうやつなんだろう?
そのまま見つめていると、ややしばらくして、琴子が顔を上げた。
定まらない視線、今にも眠りに落ちそうなまぶたで、俺の帰りを待っていたんだろうか。
頬に音を立てて唇を落とすと、ふっと琴子の膝が抜けた。あわてて左手で抱き留める。
「ふゃああ、入江くん…」
「部屋まで送るから」
肩を貸しながら階段をゆっくりと上がると、琴子が尚もつぶやいてきた。
「…いっしょに、寝よ」
「まだ言うか」
「入江く〜ん」
「なんだよ」
「大好き」
「ハイハイ」
「ほんとだよ」
琴子の部屋は、すこしだけドアが開いていて、ストッキングやらスカートやらが、ベッドの上に乱雑に置かれていた。
俺は見てはいけないものを見てしまった気がして、琴子の肩をとんと押した。
「ちゃんと、寝ろよ」
「ううんん…入江くんも、ねぇ」
琴子のアルコールのにおいに、少々酔ってしまったのかもしれない。
「…一週間後からは、しばらく寝れないから、いまのうち寝だめしとけ」
「んん?…ふぁーい、入江くん、おやすみなさい」
どうせ明日には、俺に迫ったことも、俺が迫ったことも忘れて、頭痛で苦しむに決まっている。
俺は鞄を漁ると、飲みかけのミネラルウオーターを握らせて、今度こそしっかり部屋へと押し込んだ。
了
2008年11月12日(12/9再掲)
"take me higher."の対です。直樹視点。
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