よせてはかえす

俺の朝は早い。

七時には迎えの車が来るから、五時半には起きて、軽くシャワーを浴びる。

シャワーの目的は至極単純で、眠気を吹き飛ばしたいから。

カランに向いたコックを切り替え、熱めのシャワーに頭を突っ込み頭を振ると、ようやく、覚醒してくる。

ここ一週間の俺は、心身共に疲れきっていた。

剃刀に手を伸ばすと、昨日拝借した、琴子の洗顔フォームが目に止まった。

前夜、寝る前にシャワーを浴びた時に、初めて目についたものだ。

夜、俺は時間の許す限り、ゆっくりと湯舟に浸かり、一日の疲れをとる。

何も考えず、無心になれる唯一の時間。

それでも今、考えなければいけないことは、その日あったこと、次の日しなければいけないこと、結婚式の衣装合わせ、そして指輪の購入…。

会社の引き継ぎに関しては、秘書や部下にある程度甘えてしまっている。

やっかいなのが指輪で、一度仕事帰りに覗いたジュエリーショップは、残業後の目と頭には処理できなかった。

店内の、無駄に明るく毛穴まで見えるのではないかと思うほどの光の群れに飲み込まれ…。

湯舟でそんなことを考えているうち、ふと目に止まったかわいらしいピンクの、チューブ型の洗顔フォーム。

遠い昔、前琴子とドラッグストアに行った時にカゴに入れていたような気がする。

いちごやらオレンジやら、カラフルなイラストに彩られたパッケージの存在を、俺はただの一週間前まで、気付いていなかったのか、気付かない振りをしていたのかはもはやわからない。

昨夜、俺は不審者の如く左右を見渡した後、意を決してそのチューブを手に取り、顔を洗ってみたのだった。

後には薔薇の花のような甘ったるい香りが残り、自分がいつも使っている、スクラブの入ったざらざらとした感触はない。洗った後スースーするでもなく、本当に汚れが落ちているのか疑わしいものだった。

だが、初めての、優しい泡の感触に、俺が心地よさを感じてしまったのも事実。

そうして夜が明けた今、またこの洗顔フォームを拝借しようかと悩んでいる。

思案しているうち、風呂の棚に置いてある時計が六時を指したので、「手の届く場所にたまたまあった」琴子のそれを使うことにした。

相変わらず洗いごたえのない泡をごしごしと顎に塗りたくり、丁寧に剃刀をあてる。

習慣ではあるが、この一瞬は神経をそれなりに使う場面。

シャワーで流すと、根性なくゆるい泡のせいか、ところどころ剃り残しがあったが、俺はもうやり直す気はなかった。

遅くとも始業時には消えてしまうであろう、甘ったるい香りに俺は早く慣れたいと思った。

身支度をし、誰もいないキッチン、立ったままパンをコーヒーで流し込む。

最後の一滴を飲み干すと、居間のドアが小さな音を立てて開いた。

「あれ…入江くん、おはよ」

「おはよ…早いな」

パジャマ姿ではなく、カットソーにショートパンツ、カラータイツを履いた琴子が、ぽかんと口を開けてこちらを見ていた。

「どっか行くの」

「う、うん!入江くんは会社でしょ?あたしは、朝からエステに衣装合わせに披露宴の打ち合わせ。大変だけど、すごく楽しいの!あ、もちろん入江くんが一番大変ってわかってるのよ、無理しないでね。あたしはね、おばさまが殆ど仕切って下さるから、居るだけなんだけど」

ドアの前に突っ立ったまま、琴子がマシンガンのようにしゃべる。

「おふくろは」

「シャワー浴びてるよ」

えへへ、と頭をかくと、琴子は俯いて組んだ掌をこねた。

髪に隠れて、表情が読み取れない。

唯一、左の頬が髪の房の間からほんのり赤らんでいるのが見えた。

「なんか、今日すごくかっこいいね」

「なにが」

「入江くん。また一目惚れしちゃった…。何度目だろ」

「ふうん」

「あ、ごめんね、もう時間だよね」

慌てたように飛び上がり、手をバタバタさせて俺を玄関へと促す。

ここ一週間は目まぐるしい日々の連続で、そんな中、この二人の関係に慣れていないのは、どうやら俺も琴子も同じのようだった。

「顔洗った?」

「う、うん。さっき」

「ふうん」

俺は椅子に置いてあった鞄を掴むと、ドアの前、琴子の肩に右手を置いた。

「えっ?えっ?いり…入江く…」

驚いたのか顔を上げた琴子の頬に顔を寄せると、やはり同じ甘ったるい残り香があった。

そのまま、吸い寄せられるように頬に唇で軽く触れる。

「化粧して無いの?」

「えっ、…う、うん」

「…行ってくる」

「…う、うん。いってらっしゃい…」

頭をぽんぽんと掌で撫でて、俺は居間を後にした。

 

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「なにかいいことあったんですか」

後部座席のドアを閉めると、運転手がフッと笑って話しかけてくる。

元々口数の多い運転手ではないから、余程顔に出ていたということか。

俺は努めて冷静に答えた。

「いい匂いのする花が咲いてた」

「それはそれは。大切になさってくださいね。花はいい」

「…そうだな」

俺はルームミラー越しに運転手と軽く笑いを交わすと、朝刊に目を落とした。

2008年11月18日(12/29再up)

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あとがき(筆/掲載時)

直樹視点、結婚直前。

結婚式という記念すべき日の直前ネタということで一つ・・・。

 

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