夢うつつ

 灰色の世界に幼い直樹はいる。

 魚眼レンズ越しの景色のように地面がうねる中、直樹はデパートの通路で大の字になって駄々をこねる、同じ年頃の幼い男の子を見ていた。

「買って買って」とせがむ男の子をお母さんが窘める。男の子の声が段々遠くに聞こえた。

 自分のおさげをいじっていると、直樹は紀子に手を引かれる。

 よろめきながら進むと、辺りには霞が立ち込めている。紀子がピンクのぬいぐるみを取って直樹に渡した。

 やわからくて直樹は思わず抱きしめる。何のぬいぐるみなのかが知りたくて、まじまじと見つめるのだけど、形がぼやけて判別がつかない。

 紀子は次々とぬいぐるみを持ってくる。

 場面は急転換する。

 霞漂う公園のテニスコートに直樹は立っている。

 観客がざわめく。対戦相手を向くと、その顔にも霞がかかっている。 

 目を凝らすと、霞の薄まったところに、おさげにしたみつあみのシルエットが見えた。
 試合開始の笛が鳴る。サーブを入れようと構えると、肩にビリビリと電気が走る。

 一息入れてもう一度挑戦するが、電流に気を取られボールが枠に入らない。

 直樹が肩を確認すると、低周波治療器が張り付けてあった。観客がどっと笑う。審判も笑っている。対戦相手の顔を凝視する。歯を剥いて笑う琴子がそこにいた────────

 

 


「っ……!」

 直樹は勢いで上半身を起こした。汗でTシャツが張り付き、背中にべっとりと貼り付いている。

「……なんだ、今の夢……」

 直樹はカーテンを乱暴に開け、窓を開けた。

 ここ最近は異常気象で、昼夜を問わず、辺りは霞で景色がぼやけている。

 普段ははっきりと見える、小道を二つ超えた先のコンビニの看板も、形がおぼろげでぼんやりと宙に浮かんでいるように見える。

 学生用のマンションの一室に、入江直樹の住み処はある。

 けたたましく鳴り響く目覚まし時計のスイッチを手探りで止め、直樹は大きく伸びをした。

 直樹のバイトはシフト制で、ラスト時間までいることも珍しくない。

 松本の家に寄り、一日の最後のバイトを終える。

 夕食をご馳走になると、帰宅する頃には日付が変わるのもしばしばだった。

 入江直樹は、この年になるまでアルバイトをしたことがなかった。

 父が大会社の社長である直樹は、金銭面に関しては、何不自由なく育てられた。

 学校から帰宅すれば、自動的に温かい飲み物が出て来る。

 直樹が友人を連れて来ると、母である紀子は手づくりケーキと温かい紅茶でもてなす。

 何度か直樹の家に遊びに来た友人は、ついに「毎回、ケーキと紅茶の種類が違うのがすごいな」と漏らし、恥ずかしくなった直樹は、それ以降友人を招くのをやめた。

 しがらみのない一人暮らしをしていると、思い出したくないことまで鮮明に蘇る。

 直樹は、シャワーを浴びに向かった。

 入江家・相原家が同居生活を送る実家には、夜中まで店を切り盛りしている相原重雄がいて、朝にシャワーを浴びると、きっと重雄の安眠を妨害してしまう。

 実家は、旧友である直樹の父と琴子の父をはじめ、各人の心遣いで充ち溢れていた。

 いつの間にか決められていた「暗黙のルール」がいつのまにか積もりに積もって、直樹には、いい加減、疎ましく感じられ始めていたのだ。

 教科書とノートを片手に、大学まで徒歩で向かう。

 直樹の通学路の道すがら、ゴミステーションにカラスが群れている。ふと空を見上げると、木々の枝先にも、霞の中に黒く群れた一団が見てとれた。

 さらに首を傾げ空を見上げると、白と水色の混ざり合う、まるで透き通っているかのような空にも霞がたなびき、今にも消えてしまいそうな位薄く、頼りなさげな雲が浮かんでいた。風に吹かれると消えてしまいそうなくらい儚げに。

 今までの生活でも、ごくごくありふれた光景。けして触れてこなかった風景ではないのに、直樹には、久しぶりに自然と戯れているように思えた。

 大きく伸びをして、肩を回す。

 息を大きく吸い、吐くと、朝の冷たい空気が肺を満たし全身に行き渡る。身体が生まれ変わるようだ。

 濃い朝もやの中、遠くに見える大学の校門への道を、直樹は歩み進めた。

 

 


 高校の英語と違い、文化的側面からも学べるこの英語の授業は、直樹にとっても非常に有意義であり、知的探究心をくすぐられるものだ。

 ただ、直樹には、あくまで知識として身に着けておくのは悪くはないが、将来につながるとも思えないのだ。

 ただ打開策が見つからないから、今日もこうして講義を受ける。

 いつも隣でガタガタと煩い音をたて、辞書と格闘している相原琴子は、結局出席してこなかった。

「相原さん、こなかったわね」

 席を立ちがてら、松本裕子がククと声を漏らした。

「あの子、ついていけるのかしら」

「……さあ。俺には関係ない」

「来週もこなかったりして」

 松本は、後ろ姿でひらひらと手を振り、講堂を後にした。

 全ての講義が終わると、直樹はバイト先に急ぐ。

 そうして、直樹の一人暮らしに於けるルーチンワークが出来上がりつつあった。

 そのかわり──校内でも、キャンパスでも、直樹が琴子の姿を認めることは、全くなくなった。

 学部が違うのだから当然のことだ。

 その日、琴子はバイト先に来なかった。

 

 


 6時50分。いつもと同じ朝が来る。

 直樹は目覚まし時計を止めると、上半身を起こし伸びをした。

 今日直樹が朝方見たのは、琴子と喧嘩をしている夢だった。

 面倒な家、好かれていることを抜きにしても、琴子は、相手に困るくらいのテンションでぶつかってくる。

 一人暮らしを始めて、なにもかもから逃げて来たつもりが、夢の中で追い掛けられ、道を塞がれる。霞が立ち込める中、足がもつれ身動きが取れなかった。

 ただ、不思議と嫌ではないのだろう。昨日の寝起きのような絶望感はなかった。

 そのまま天井を見上げると、感情の沸かない中に、琴子の顔がおぼろげに浮かぶ。そういえば、夢の中の琴子は泣いていた。

「寝るとき位、一人にさせてくれよ……」

 寝起きの渇いた声が、余計に直樹を惨めにさせた。

 その日も、琴子はバイト先に来なかった。

 次の日も、その次の日も。

 直樹は琴子の夢を見なくなっていた。

 接点がなくなると、人は他人を忘れていく。

 それが世の常であることは、直樹もよく知っていた。

 バイト先のドアの音がするたび度、目線を入口に向ける。松本に指摘されて、無意識に琴子を探す自分に気付いた時、直樹は深くため息をついた。人一人に、振り回されている。

 たかが、夢に出てきたくらいで……。

 ただ、直樹は頭の中までもが霞がかかってしまったようで、冷静に論理的な組み立てを元に結論を出すという、本来の直樹にとって極々当たり前のことが出来なかった。

 その日もやはり、琴子の夢は見なかった。

 今日も、琴子はバイト先に来ない。

 直樹は、同居人という関係で、一方的に愛の恋だのをぶつけてきた琴子の姿が、記憶の中であやふやになっていくことが恐ろしかった。

 そんな自分がひどく滑稽に思えるのに。

 直樹は、今、少しの焦りを感じている。

 この気持ちはどこから沸いてくるのだろう。

 直樹の中の「自覚」が、行き場を失い、首を垂れて立ちすくんでいる。

 

 


 裕樹、そして里美とじんこから聞いた話によると、どうやら琴子は、振られたのだと勘違いをして身を引いているらしい。

 直樹は、琴子が自分の預かり知らぬところで苦しみ、思い悩んでいることが腹だたしかった。

 考えもつかなかったこと──今になって自分を忘れるつもりでいることに、呆れてもいた。

 この腹立たしい感情の要因はなぜか──ゆらゆら揺れる心の中をそうっと掌で掬ってみても、やはり見ることはおろか触れることすら出来ない。

 霞む目をこすってみても、前が見えない。

 今は、分からなくていい。直樹は思考を閉じた。

 

 


 相変わらず、辺りには霞がたち消えない日々が続いている。その日直樹は、学食で初めて琴子を探した。

 キャアキャアと姦しい女の集団に、琴子はいなかった。

 その日の講義が終わり、学生がどっと廊下に溢れる。

 廊下の窓は見晴らしがよく、直樹は人込みで進まない廊下、相変わらず霞につつまれた窓の外を見つめて時間をつぶしていた。

 ふと目線をさげると、深い霞の切れたところに、文学部と理工学部の間の建物が見える。その陰に、髪の長い、よく見た姿を見つけた。

 直樹は嬉しかった。

 琴子が以前と変わらぬ姿で存在し、それを自分に認められたことが。

 今日、久しぶりにアイツの夢を見るかもしれない。それよりも前にバイト先に来るのが先か──直樹は苦笑いを押さえきれず、思わず口を被った。隣で怪訝そうにこちらを窺う松本の耳元に口を寄せる。

「綾子ちゃんとの待ち合わせ、10分遅らせてくれる? 場所は文学部との境の……」


2009年4月1日脱稿/2009年6月2日up

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