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朱い月

 今日の満月が大きく、赤く見える。

いつか入江くんから、そう見える「カラクリ」を教えてもらったことはあったけれど、結局、あたしにはよくわからなかった。

満月の夜は、赤ちゃんの生まれる人数が多いらしい。

健康な成人でも、精神が不安定になることがあるらしい。

……と、あたしは聞きかじった話を頭の中で反芻しながら、満月の見えるこの場所で、髪を梳いている。

東京の、それほど大きくない暗闇を、見慣れない球体が占領しているのだけでも、居心地が悪い。

きっと……。

たしは大きくため息をついた。

もしかしたら、ここら一帯が怪しげな組織に乗っとられ、そしてあたしは月からやってきた宇宙人に捕われ、入江くんと離れ離れになってしまうかもしれない。
そうしたら、入江くんは、入江くんは……。

 

「風邪ひくぞ」

「うわあっ、い、いりえくん早かったね」

「ノックしたぞ。ぼーっとしてんなよ」

「あれ、そうだったんだ、ごめんね」

あたしは、入江くんに気付かれないように涙をぬぐった。こんな夜に、妄想に浸っている場合じゃない。

「……」

「ええっと…今日は湯舟に浸からなかったの?」

 

入江くんは、上はTシャツに、下は……

「キャアアアアアアアア!!」

あたしはあまりにもびっくりして、力の限り精一杯叫んでしまった。慌てて口を押さえるけれど、後の祭り。

「うるせーな今日付変わってんだぞ。……なんだよ」

一階から、ドタンとなにかが落ちる音がした。

おかあさまがベッドから落ちたのかな。ごめんなさいびっくりさせちゃって。でも、でも!!

「ななななんで!!!」

あたしは入江くんが見られなくなってしまったから、窓を向いた。不気味な月がこちらを見ている。

「……なんだよ」

背中に気配が動いて、ベッドが軋む音がする。

乱暴に髪の毛を拭く音がしたから、入江くんはまだ着替える予定はないんだとわかった。

早く着替えてくれないと、あたし入江くんとお話もできないよ。

あたしは、窓にぎりぎりまで近づいて、絶対に入江くんを視界に入れないように姿勢を整えてから、

大きく息を吸って小声で叫んだ(深夜だから)。

 

「なななんで、パンツなのっ!?」

 

髪をタオルで拭いていた音が止まり、入江くんはため息をついた。

「……何も履かないというのは、俺でも厳しい。おふくろもいるしな」

「……そうじゃなくて!!」

振り返ると、入江くんはタオルを肩にかけて、こちらを見ていた。

でも肩から下はどうしても見られないの!

入江くんの顔をじっと見つめていると、不機嫌そうな目が、瞬間水を得た魚のようにいきいきと輝き出した。

あれ?あたしの言わんとすることが、通じたのでしょうか。

そのまま入江くんは、ベッドから腰を上げると、あたしに近づいて来た。心臓が激しく鼓動を打つ。多分、もう少しで破裂してしまいますよ、入江くんってば。

「い、いりいりい、いり……」

そのまま、あたしは手を引かれて入江くんの胸におさまった。

Tシャツとパンツの、この上ないくらいラフな恰好の入江くんの体はまだ温かくて、角張った骨と、すね毛がちくちくして痛痒かった。

あたしは慌ててもがくけれど、足同士がからまって動けない。腰を引いて、入江くんのパンツから身体を離そうと体をずらすと、バランスがおかしくなってさらに近づいてしまう。薄い生地の向こうに、入江くんの……。

あたし、恥ずかしくてもう、だめ……。

 

「戸籍上、やっと夫婦になって、はじめての夜なのに、いきなりパンツだったので恥ずかしい、と」

 

熟れた桃のように、とろとろに溶けてしまいそうなあたし。

入江くんは、おかしそうにクスクス笑いながら、手であたしの髪を梳いている。

 

「……そーよ、その通りよ……」

 

いつか言った台詞。

あの時は、届かない思いを力任せにたたき付けたけど、今はつぶやくので精一杯だった。

あの時も、今も、結局あたしって、なんでも入江くんにお見通しなんだなあ。

ぼんやりと考えていると、視界が回って、いつの間にかあたしはベッドに座らされていた。

ふとももも、右半身も温かい。

「パジャマ、全部洗濯だったんだよ」

耳元で、吐息混じりの低い声が響いた。ああ、今あたし入江くんの膝に座ってるんだ。

あたしのパジャマ越しに触れている、入江くんのふとももをつっついてみた。

皮膚が固くてすぐ跳ね返される。そのまま筋肉にそって指を動かすと、入江くんは、そのあたしの手首を掴んだ。

「積極的だな」

「ちっちっちっちっ」

精一杯かぶりをふって、それからそうっと入江くんを見上げると、入江くんも、あたしを見ていた。

いつから、見ていたの?

入江くんの目が閉じられる。近づいてくる。

あっ、と慌ててあたしも閉じる。

身体の、一番柔らかいところを重ね合う時、あたしの気持ちと入江くんの気持ちがぐちゃぐちゃに混ざって目の裏側がパチパチとはじける。

ぐちゃぐちゃしたものがとろみを帯びたクリームみたいになる。それがふわふわにホイップされて、あたしたちを包む。

薄目を開けても薄い膜に覆われて、視界が悪い。あたしはどこまでがあたしで、どこからが入江くんなのかがわからなくなってしまう。

唇に温かい感触と、入江くんの鼓動以外、なにも聞こえない。

あたしはわけがわからなくなる。あたしのほうが入江くんを好き。でも入江くんもきっとあたしをすごく好きだと思う。今この瞬間くらい、自惚れてもいいよね?

ゆっくりと唇が離れていく。名残惜しくて、あたしは入江くんにすがってしまう。

置いていかないで。

心の中でつぶやいたはずが、声に出してしまっていたらしい。

入江くんは、あたしをベッドに向かい合わせになるように座らせて、両手であたしの耳とあごを包んだ。

「琴子」

顔を上げると、入江くんは少し困ったように笑うと、その唇があたしのほっぺたに押し付けられた。

恥ずかしい音を立てて、あたしの顔中を、キスの嵐で埋めていく。

ようやく嵐が過ぎ去ってあたしが目を開くと、入江くんは、また、まゆげを少しあげて、困ったように笑っていた。

「恥ずかしいよな」

ぶんぶんと力いっぱい頷くと、入江くんはまたあたしの背にやわらかく腕をまわした。

「今日は、言わば第二の初夜だし」

「しょしょしょや、って」

あたしは引き寄せられたまま。ドギマギとして入江くんの肩ばかりみていると、耳元に低い声が響いた。

「抱きたい、琴子」

あたしはそれからなにも覚えていない。

2009年4月1日

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