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Bless you 【前篇】

 オレンジにぼやけて光る電灯に照らされて、木々の葉が舞落ち、地面にいくつもの層を作る。
はらはらと不規則に葉が落ちる。
入学前から気になる存在だった。友人との話の中に、ことあることに話題に上る「天才・入江直樹」については、最初はルーズリーフ一枚にも満たないくらいの情報量だった。大学で、サークルで、行動を共にするうち、日常の、リアルの入江直樹という存在がバサバサと音をたてファイリングされる。付箋でチェック済みのページが多くなって、収拾がつかない。ファイルを心の中の専用ボックスにきちんと整理するが、その束はどんどん増えていく。たびたび深呼吸をして、ページを一枚ずつめくっていくと、やはり一つの核心めいた答えにたどり着くのだ。
 松本裕子は、そうして、入江直樹に惹かれていると自覚した。

 松本は小さい頃、落ち葉をある一カ所に集め、焚火をするのが好きだった。幼稚園の授業の一貫で、先生は園児達に、公園のあちこちから枯れ葉を集めてこさせる。程よく集まったところで、先生が火を付ける。火が高くなり、煙りが辺りを白くいぶり始めた頃、今度は大人達が焚火に水をかけて火を消す。園児も混じってトングで燃えた枯れ葉を探っていくと、やっとアルミホイルに包まれたさつまいもにありつける。アルミホイルの銀は真っ黒になっており、怖がる子供もいたが、松本は一人黙々とアルミホイルを開いて、さつまいもにかじりついた。
当時松本は絵本や図鑑に飽きたらず、文学書やエッセイも読み始めていたから、黒焦げた包みのさつまいもが、甘くて美味しいと知っていたのだ。

 大学のキャンパスには、テニス部のコートを見るためだけに作られたのではないかと思うほど、的確な角度に配置されたベンチがあって、松本はそこをとても気に入っていた。
ベンチに腰を落とす。風で舞う枯れ葉を、足にまとわりつかせながら、つま先で遊ぶ。
座ったまま背すじを伸ばすと、人のいないテニス部のコートが見える。風に舞い上がる落ち葉が、電灯に浮かび上がる。

 木は葉をおとすと、冬の間、つかの間の休みをとる。
 この景色も、何ヶ月か経つと、樹木が北風に耐え忍ぶ茶色の世界になる。
 生を受けて二十年余り、松本はわかりきった世界を生きてきた。知識と心構えさえあれば、多少のことには動じない。

 ただ入江直樹と相原琴子に関しては、経験即でははかることが出来なかった。

 彼らは来週、結婚式を挙げる。

「そろそろかな」

 松本は立ち上がると、拳で腰を軽く叩き、風に吹かれて乱れた髪の毛をかきあげると歩き出した。

 松本は自分の長い髪の毛が好きだ。頭の回転がよく、子供の頃から負けん気が人一倍あったから、男子を言い負かすこともたびたびあった。子供はいつの世も素直で残酷だから、そんな松本を「男オンナ」「生意気なヤツ」と罵る。それから、松本は髪を伸ばし始めた。長い髪の毛は、松本にとっての、オンナとしてのアイデンティティの一部だった。

 待ち合わせは、学生街の安い居酒屋だった。引き戸を開けると、そう広くない店内の一番奥の小上がりに、見覚えのある踵が踏まれたままのスニーカーと、ローヒールのポップな色使いのパンプスが並んでいる。

 松本は、話しかけようとする店員に軽く会釈をし、小上がりの引き戸を開けた。

小上がりは狭くこじんまりとしていて、所々、畳がささくれ立っていた。大人の男性が四人も座れば、背中が壁についてしまいそうだ。こちらに背を向けて座り、メニュー表を見ていた琴子が、膝立ちになって体を捻って笑顔を見せる。

「わあ、松本さん、すぐわかった?」

「おい、琴子バタバタするなよ……松本、どうもな」

 琴子の左隣で肘をついていた直樹が同じく体を捻り、松本を迎えた。

「お久しぶり……でもないわね、入江くん、元気そうでよかったわ。相原さんに催眠術でもかけられて、衰弱しきったところで強制的に結婚させられるハメになったんじゃないかと心配で心配で」

「ちょっとおー、松本さん!?」

「さすが、鋭いな」

「ち、ちょっとおー!入江くんまで!」

「ふふ、じゃ、お邪魔するわね」

 松本は席につくと、コートをかけ、直樹の正面に座った。テーブルの下は掘ごたつになっていて、そこに足を押し込む。暖房が効いていてほのかに暖かい。

「やっぱり!松本さんは入江くんの正面だと思ってたのよね、ね、入江くん!入江くんってば〜」

直樹は琴子を軽くいなすとメニューをテーブルに広げた。

「急にわるかったな」

「いいのよ。それよりあなた達のほうが今大変なんじゃないの?招待状きたわよ」

「正直あんまり時間に余裕がないんだ。ここに来てもらったのも」

「あのね、あたし松本さんにはきちんと言いたくって、だって、入江くんがお見合いしたときだって、だって……」

 琴子の語尾が小さくなる。うつむき、おしぼりを手でこねながら、だってと繰り返す。
 直樹は左肘をついて、盛大にため息をつくと、注文ボタンを押した。

「……一先ず、腹減ったから」

「そ、そうね!ごめんね入江くん」

「私はとりあえずビールと枝豆」

「……松本さんってオッサンよね」

「なんですってえ!聞こえたわよ!」

「あ、あたしウーロンにカリカリチーズ!」


 御用聞きの店員が戸を閉めた後、三人はいつもとは違う、張り詰めたような雰囲気にのまれて、なにも話せないでいた。三人が揃うのは久しぶりだ。いつも琴子と松本は入江を巡っての口撃戦を繰り広げ、渦中の入江は心底どうでもいいという態度をとり続けた。しかし今、入江の隣には琴子がいる。同じ家に住んでいるのだから仕方がないというエクスキューズはもはや必要がなく、お互いがお互いを必要だと認識した上で、今ふたりは隣り合っている。松本は、直樹の長い睫毛を見ていた。ゆっくりと瞬きをする、その視線の先には琴子がいる。

 そんな二人を始めて目の当たりにして、松本は、いつになったらこの男を諦めたらいいのか、そればかりを考えていた。

2009年5月7日

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