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ただ、ずっと


 あたしは机に突っ伏して、下階から聞こえ漏れる"新しい家族"の団欒をぼうっと聞いていた。あたしの周りは分厚い防音壁でおおわれていて、あたしは一人、とらわれの宇宙人のように隔離されている気がしていた。全ての生活音がどこかよそよそしく、不自然に聞こえる。

 入江くんと結婚をすることは、あたしの非現実的な夢だった。かなわない恋心を抱きながら過ごした高校時代に思いを馳せる。すれ違うだけで心が温かくなった。ただ遠くから見守るだけだったあの日。想いが通じて結婚をすることになるなんて思い描くことすらできなかった。ただ顔を赤らめて教科書を握り締め、すれ違いざまにじんこやさとみに押されて少しだけぶつかった時の入江くんの制服の感触は今もはっきりと覚えている。

 入江くんのくつろぐ姿や怒った顔、時折かけてくれる優しい言葉に、あたしはますます入江くんを好きになっていった。あたしの心の中はまるで底なし沼のようで、毎日毎日「好きだ」という気持ちを溜め込んでいく。初めて会ったときから、ずっとあたしの心の中には入江くんしかいなかった。いろんな場面の入江くんがあたしの中にはいて、ただ「あたしのことを好きな入江くん」だけはどう願ったところで手に入れることは出来ないと思っていたのに。

 結婚が決まってから、あたしはおばさまに流されるがまま、結婚式の準備に追われていた。入江くんは忙しくて、相談相手はいつもおばさま。二人の結婚式なのにと落ち込んだりもしたけれど、入江くんが結婚してくれることに変わりはない。そう思ったら少し吹っ切れた。入江くんと何日会話してなかろうが、あの日言ってくれたことを信じている自分がいるんだから。

「はぁ……入江くんに会いたいなぁ」

 カーテンを開けてみる。街灯の明かりがぽつぽつと灯る中、家の門を入ってくるスーツ姿を見つけて、あたしは反射的にカーテンを閉めた。心臓がどくどくと脈を打つ。

「これじゃ、片思いしてる時と変わらないじゃない……」

 あたしは飛び出しそうな心臓を押さえつけるように、ぎゅっと手を握って胸に当てた。入江くんを慕う気持ちが、その姿を見ただけでどんどんと大きくなる。自分でも手に負えなくて、あたしはベッドに身を投げて目を閉じた。


****


 自分の鼓動が気にならなくなった頃、ノックの音にあたしはゆっくりと目を開けた。

「ん……はぁい」

 言ってから、ろれつがうまく回っていないことに気づいた。少し眠っていたらしい。

「……琴子?」
「いっ、入江くん!?」

 予想もしていなかった来客に、ぐちゃぐちゃになった髪を手ぐしで梳かし、顔をパンパンと叩いてからあたしはそうっとドアを開けた。

「……か、帰って来てたんだ」
「お前窓から見てただろ」

 Tシャツにネルシャツを羽織り、ジーンズを履いた、いつもの姿の入江くんがためいきまじりにそういって、あたしのおでこをコツンと小突いた。じんわり広がる痛みがあたたかくて、あたしは両手でおでこを押さえた。

「ば、ばれてたんだ」
「ばれるもなにも……お前、メシ食ってないんだって」
「食べたよ……少しだけ」
「ちゃんと食えよ」

 入江くんの目を見て話すことが出来ない。あたしはうつむいたまま、入江くんの言葉に相槌を打った。いたたまれないような、むずがゆい気持ちが体中を駆け巡る。

「そ、それだけだったら、あ、あたし寝るから」

 ドアを閉めようとドアノブに手をかけると、入江くんの手がその上からあたしの手を包んだ。

「……ちょっと出るか」
「え……う、うん」

 入江くんの手は温かくてやわらかい。でも大きくて少しだけ骨ばっていて、男の人なんだなと実感させられる。入江くんの手の甲を見つめて、あたしはもう片方の手をそっと乗せた。

「……なんか羽織るもの取ってくるから」
「そそそうだね、あたしもなにか着ないとかか風邪引いちゃうから」

 ドアを閉め、暗い部屋の中から厚手の上着を引っ張り出す。ブラシで髪を梳いて廊下に出ると、入江くんは廊下に背をつけてうつむいていた。

「ご、ごめんね、遅くなっちゃって」
「いや……」

 入江くんは身体を起こすと、あたしに手を差し伸べてきた。

「行くか」
「う、うん」

 おそるおそる差し出したあたしの手を握り締め、入江くんはそのまま階段を降りていく。まるでエスコートでもするように、ゆっくりと。

「く、くつ履かなきゃ」
「そうだな」

 入江くんはあたしの手を離し、スニーカーに手をかけた。ぬくもりを失ったあたしの手が行き場をなくして、あたしは両手を合わせてぎゅっと握り締めた。大切な物が壊れてしまったような寂しさがあたしの心に広がる。

「……靴履かないの」
「う、うん……」
「履かせてやろうか」
 
 笑いを含んだ声に見上げると、入江くんは見たことのないような優しい目であたしを見つめていた。

「だ、大丈夫」
「そう」

 靴を急いで履くと、入江くんはまたあたしの手を取って玄関の戸をあけた。秋の風が吹き込み、あたしの髪を乱す。あたしは髪の毛を押さえながら身震いをした。

「さむそう……」
「じゃ、こうしてればちょっとは寒くないだろ」

 入江くんはあたしの肩を引き寄せて、それからあたしの腰に手を回した。入江くんのぬくもりが身体全体に伝わって、吐息が近くで聞こえる。

「ひゃあっ」

 急な接近にびっくりして見上げると、至近距離の入江くんが口角を上げてにやりと笑い、あたしを見つめた。あたしはまたいたたまれない気持ちになってうつむいた。

「じゃ、行くか」
「行くって……どこに?」
「どこでも……お好きなところへどうぞ」

 入江くんの吐息があたしの髪にかかる。その度にあたしの鼓動は跳ね上がり、心が満たされていくのを感じていた。

「ど、どこがいいかな……」
「まぁ寒いし、適当に歩いてコンビニでも寄って帰るか」

 入江くんの手があたしを促す。戸を閉めて空を見上げると、ピーナッツのような形をした月が浮かんでいた。いままでずっと、一人で見上げていた月。二人で見ることが出来たら……。

「あ、あたしブランコに乗りたい!」

 歩きながら意を決して言うと、不意をつかれたのか入江くんは吹き出して笑った。

「ブランコ?」
「う、うん!」
「寒くないのかよ」
「い、入江くんがあったかいから大丈夫」
「なんだそれ」

 入江くんの身体が、笑いをこらえているかのように揺れる。あたしはそうっと入江くんの背中に手を回してみた。さらにあたたかくなって心が満たされる。入江くんもあたしの腰を更にきつく抱いた。


****


「わあ、気持ちいいよ!入江くん乗らないのぉ?」

 ブランコを立ちこぎながら、ベンチに座る入江くんに声をかけると、入江くんはゆっくりと首を振った。

「気持ち良いのにぃ……」

 冷たい風を切って、身体が揺れる。空を見上げると、さきほどと同じく月がぽっかりと浮かんでいた。勢いをつけたまま、ブランコから飛び降りると、月の表面に着地したかのような気持ちになった。

「おい、お前……」
「ふぅ、無事着地!」

 手についた砂をほろい入江くんの隣に腰掛ける。入江くんはあたしの頭をぽんとはたくと、うつむいて地面を見た。

「余計なことすんな」

 いつもの入江くんの、鋭い声があたしの胸に突き刺さる。

「ご、ごめんなさい……でも得意なんだよ、ブランコから着地するの」
「怪我したらどうするんだよ」
「はぁい……」

 あたしも黙って地面を見つめた。入江くんの言うことはもっともだ。今怪我したら、結婚式で松葉杖をつくなんてことになりかねない。

「……ごめんなさい」
「いや……」

 それっきり、入江くんは黙ってしまった。あたしは手持ち無沙汰になって、靴で地面をいじっていた。つま先でハートを書いてはそれをまた砂で覆う。砂の音と遠くで聞こえる車のエンジン音を聞きながら、あたしは隣に入江くんがいることの幸せをかみしめていた。


****


「……これ」

 どれだけの時間がたったか分からない。入江くんは上着のポケットに手を入れると、手の中の物をあたしの手に握りこませた。

「なに?これ……」
「指輪」
「ゆっゆびわ?」

 手の中には、確かに四角い形をした指輪のケースのようなものがある。おそるおそる手のひらを開けてケースを開けると、シンプルな形をした結婚指輪が二つ収まっていた。

「小さいほうがお前の」
「う、うん!買ってきてくれたんだ」
「今日、仕事早めに切り上げて買ってきた」
「あ、ありがとう!」

 街灯に照らされて、二つの指輪がキラキラと光る。あたしはうっとりとそれを見つめていた。

「でもサイズ、合うかなぁ」
「お袋から聞いたから大丈夫だよ。お前、お袋に言ってたんだろ」
「あ、そういえば聞かれたかも……そうかぁ、このためだったんだ」
「……おせーよ」

 入江くんはケースをあたしから受け取ると、またポケットにしまった。結婚式まであとわずか。今度受け取るときは、あたしは入江くんのお嫁さんになっているんだと思うと、自然に涙が溢れてきた。必死でこらえていると、入江くんはあたしの肩を抱き寄せた。

「ほわぁっ」
「いい加減慣れろって」

 また含み笑いの入江くんの声が近くで聞こえる。入江くんもあたしも何も言わない。寒く感じた風が、いつのまにか心地いい風になってあたしたちを包んでいた。

 あたしたちはしばらく、そのまま風に吹かれていた。


 

2010年3月12日(※裕樹の日記より抜粋〜結婚式10日前からカウントダウンの11/18スピンオフ)

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