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ライオン


寒気がなだれ込み底冷えのする街を、駅を目指してただ歩き続けていた。

張られた頬に風がひゅうと突き刺して、ピリピリと神経に障る。
手を頬にやると、手のささくれがチクチクと頬に痛い。
忌ま忌ましい、思い出したくもない記憶が蘇りそうになるから、一刻も早くこの街から離れることだけを考えていた。

いや、本当は。
本当に途方にくれている。
あきれてものも言えないのは、オレ自身に対して。

「ま…ま、コート、コート忘れてる…」

息を切らした琴子の声が聞こえたから、急に寒さが身に染みた。

渡された上着を羽織ると、五感が戻ってくるのがわかる。
むなしさが浄化され雲になり雨を降らせ、草木が新たな命を得る。
そんな芽吹き新たな命を生むようなあたたかい感覚に息を飲んだ。

あたたかいと感じるのは物理的にだけなのか、こいつが追い掛けてきてくれたからなのか。
わからないから、少しだけ歩む速度をゆるめて、小走りのこいつに合わせてみた。
なにかが、変わる気がして。

「あ、あの、えっと、お…おばさん、ち、ちょっと興奮しちゃったんだよね」

それにしても、こいつは何を思ってオレを追い掛け、涙しているのだろう。

「オレ」はおふくろに打たれたことにショックをうけているのは明白で。

あれほど声を荒げたのは今まで生きてきた中でもあとにも先にも、ないから。

自分のことですら、落ち着いた今になってもなにか異次元で起きたことのように実感がないのに、目撃したこいつにはやけにリアルで、堪えたのかもしれない。いや多分…

「…恋愛も、ダ…ダメだよね」

涙混じりの声に、まるで冷や水を首に一筋垂らされたかのような居心地の悪さ…、ひんやりとした冷たさを保ち、玉をなして肌をゆっくりとすべる一筋の水滴を感じた。

すぐに感情的になる奴は嫌いだ。自分の思い描き理想とするこだわりにとらわれて、後先考えずに過ぎた言葉を吐く奴は。

どうもオレは、そんな下衆な奴に成り下がったらしい。

こいつとオレがまったくの異次元の住人ではないというのは随分と前に伝えたことで、大げさに言えば同じ空気を吸うことを了承し、少なくともそう長くはない期間、こいつがなんらかの事情でオレの目の前からいなくなるまでは、こいつがそばにいることを拒否しないという契約を交わしていた。

逃げずに立ち向かう、と。曖昧な境界線をそのままにして。

オレは一国の王のつもりはない。万能だという思い上がりもないはずだった。
自分で客観的に見ても勘の良さとフレキシブルな能力に長けているから、なんでもそつなくこなせたし、それが当たり前だと思っていた。
ただそれだけだ。

それだけだったはずが。

うしろから、くぐもった涙声がぽつりと聞こえている。

本当に、こいつが纏わり付くようになってから、物事がスムーズにいかない。
例を挙げればキリがない。お袋と結託し面倒ばかりかけるし、自分の預かり知らぬところでくだらない恋愛のゴタゴタに巻き込まれる。
心の休まる日はない。

でも、居心地は悪くなかっただろう?

今は、居心地が悪いだろう?

いまさらだ。自問したところで答えは多分イエスだ。

可笑しい、バカバカしい、と。いつものオレなら一笑に付しエスケープボタンを押すところだが、恋情とはつまるところ丸裸にされた無防備な心をぶつけ合う感情なのだろう。
面倒を掛け合うのが人間関係の真髄なのだとしたら、こいつとオレの関係はどう言い表せる?

どうしたらこいつを泣き止ますことができる?

おふくろとの言い争いからこっち、感情のタガが外れっぱなしだ。それならそれでいいと、今はそう思う。
だから、流されてみようか。

だけど白旗をあげるにはまだ早いから、まだあがいてみよう。
ただ戸棚の奥に誰にも見つからないように隠してあったケーキを、そっと二人で分け合えばいい。

「おれは医者になりたいんだ」

顔を真っ赤にし、鳴咽をこらえて目をぎゅうとつむっていた顔が目を見開いてこちらをみた。

「なんで、あたしに?」

オレを知って欲しいというエゴきわまりない感情や、秘密を共有したかったという独占欲ともとれる願いを込めているなんてことは、まだ言ってやらない。

「…さあ」

二人しか知らないことがひとつ生まれ二つ三つと増えていく。それが続けばいい、なんて言ってやらない。

「誰にもいうなよ」

しばらくは、この居心地の良さを独り占めしたいから。

「じゃあな」

改札を抜け人込みに紛れる。行き交う人の波に体を預け思う。

この小さな変化が誰に悟られるでもなく、自分の思うままに操れたらいいのに。

…やはりオレは王様きどりなのかもしれないと苦笑が零れる。
今日初めて笑えた気がした。

2008年7月25日

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