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抜け駆け


軽く会釈をして木製の重い戸を引くと、手にしめりけを感じて直樹は顔を歪めた。
そのまま暗い廊下へ一歩踏み出すと、床はしっとりと濡れており、上靴が鳴る。
誰も彼もがせわしなく動き回る職員室とは対照的に、廊下は静まり返っていた。

朝方から小糠雨のごとく不快感を撒き散らしていた空が、雨つぶを増し、ざんざんとひっきりなしに窓を叩いている。
とうとう最後まで代わり映えのしなかった空に構わず、直樹は玄関へと急いだ。

「あ、入江くん!」

職員室と玄関の間にある、渡り廊下の左横の扉を開けて、直樹を呼び止める大きな声が響く。

「なんだよ」

「入江くん、答辞の打ち合わせ?偶然!あたしもなの!
あたしも…明日クラス代表だから打ち合わせに来て、今ちょうど終わったんだ」

一気にまくし立てながら、琴子はスカートのすそを揺らして直樹に駆け寄った。

「だから何」

「えーと、ひどい雨だね」

「だから」

琴子のスカートからのぞく、赤いひざ小僧を一瞥して、直樹は吐き捨てるように言った。

「傘持ってきて…ない、よね」

「ない」

「あたしも…。傘に入れてもらおうと思ったんだけど」

琴子が手のひらをあわせて上目遣いで見上げると、直樹は少し目を見開いて、ふいと横を向いた。

「相変わらず図々しいな。…走って帰るから」

「ええっ、だめよ!明日は一世一代の晴れ舞台なんだから!風邪引くよ…あ!」

腕を組んで宙を見つめ、なにやらつぶやくと、琴子はさらに身を乗り出して直樹に迫る。

「おばさまに、電話して迎えに来てもらったほうがいいわ!うん」

「いいよ、面倒くさい」

「だめよ!入江くんの体はもう入江くん一人のものじゃないのよ!」

琴子の高い声と耳をつんざくばかりの雨粒に、直樹は長いため息をついた。
腕にかかっていた琴子の手を掃うように体をひねる。

「早く電話してくれば」

「うん、そうする!あ!」

「なんだよ」

「入江くん、なんでブレザー着てないの?」

「…朝濡れたから教室で脱いだ」

「とってこよ、忘れたら大変だよ!」

先ほど破顔した顔をしかめて、琴子は跳ねるように駆け出した。
影も作らない暗い背中を見つめて、直樹も後に続いた。

****

「わ、A組にきちんと入るの、はじめてかも」

「何も盗むなよ」

パチ、とスイッチの音が教室に響き、二人はまぶしさに目を細める。
黒板には、真面目で優秀なA組には似つかわしくないイラストと別れを偲ぶ言葉が様々な筆跡で綴られている。
琴子は珍しそうに辺りを見回した後、直樹の椅子にかけられたブレザーを手に取った。

「入江くん、高校生活楽しかった?」

琴子の思いつきや唐突さには慣れていたはずの直樹だったが、友人にさえ面と向かって言われたことのないストレートな問いに、少なからず戸惑いを覚えた。
答えを思案しているうちに、諦めのため息を伴って琴子が続ける。

「あたしはね、すごく楽しかった!」

「…へぇ」

直樹はあいまいに返事をすると、琴子からブレザーを受け取り、机の横に寄りかかる。

「でも、やっぱり入江くんと一緒のクラスになりたかったなぁ」

琴子はうつむき、前の椅子を引くと、後ろ抱きにまたがった。
直樹の左側に、長い髪の毛がはらりとかかる。
二人は知らず知らずに近くなっていた距離に、はっと身を起こした。

「えっと…あのね、例えばテストの時、後ろに入江くんがいたらどれほどいいだろうって」

「前の間違いだろ」

変わらぬ口調で、直樹が答えた。

「どっちでもいいの、ほら、プリント手渡しに出来るじゃない?」

「カンニングしたいんだとばっかり」

「…もう!」

相変わらず、激しい雨が降り続けている。
直樹は再び腕にかかる長い髪を払うことをせず、暗い廊下を見つめていた。
どすどすと足音が近づいてくるのが聞こえて、琴子も何事かと廊下を見つめた。

「琴子!どこにおったんや!」

「金ちゃん!どしたの?」

金之助はひざに手をつき、肩で息をしながら続けた。

「どしたのって、ちょっとトイレに行った隙にいなくなってしもーたから、探しとったんや!
入江!琴子に手ぇ出してへんやろな?二人っきりでいやらしい!」

「一緒に帰る約束してないし」

「想像にお任せするよ」

どちらともなく顔を見合わせてため息をつくと、机と椅子の乱れを整えて二人は出口へと向かった。

「あ、おばさまに電話するの忘れてた」

「…サイアクだな」

「なんやなんや、頼みごとなら引き受けるで!」

三人の後姿が玄関に向かう。沈みゆく太陽が厚い雨雲の隙間で一瞬光り、三人に長い影を作った。

 

2008年8月28日

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