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雪舞う

 治安が良い場所を選んだとはいえ、学生用のこじんまりとしたこのマンションはやはり壁が薄く、時折近くの部屋からギターの音が漏れ聞こえ、飲み会で騒ぐ男女の大きな声が開け放れた窓の外から入って来ることもまれにある。

直樹には不思議とそれが心地よかった。

学校から帰宅すると、洗濯機にシャツと靴下を放り投げ、洗濯機を回しながらシャワーを浴びる。

家からバイト先までは徒歩で行けるので、髪の毛の水気を乱暴にタオルで拭くと、しばし本当の一人の世界に落ち着く。

喫煙はしないという契約で借りたマンションだったが、ここ最近はこのタイミングで煙草を手にとることが多くなった。

煙草の銘柄には特にこだわりはないが、タール含有量の多いものを、一日一本だけ、と決めている。

なるべく煙の多いものをと、最近はセブンスターを好んで買っていた。

紫煙を燻らせ、今日一日を振り返る。

実家で暮らしていた日々と変わらぬ毎日。

朝大学へ行き、友人と他愛も無い話をし、講義を受ける。

体を動かしにテニス部へ顔を出すこともある。



 なにも変わらぬ日常。

漠然とした不安をぶち破る閃きと具体的な将来像。
そして、琴子の存在。

大学生活の中で模索しようとあがいていたが、一人暮らしを始めたところで、今の所は何一つ直樹にもたらされたものはない。

ただ、実家にいるよりもずっと、時間の流れがゆるやかで、それだけが今の直樹の安らぎだった。





 急激に発達した低気圧が関東一帯を覆い尽くし、珍しく強い風に雪が飛ばされている。

やはりこんな日に外食をする変わり者はおおよそいないらしく、店内は閑散としていた。

20時をまわったころ、バイト先に雪だるまと化した琴子が現れた。

琴子を見ると、嫌でも実家を、そして琴子との曖昧な関係を思い出す。

琴子を店内の、なるべく温風が当たる席に案内し、水の入ったグラスをトンと置いた。





 バイトを始めて間もない頃、非番の須藤がバイト先に様子を見に来たことがある。

なぜ家を出たのかと、開口一番口を尖らせて、直樹に、納得できぬとアピールした。

いわく、何も考えずにエスカレーターに乗っていればいいのに、と。

「なにも足掻かなくても、あの家にずっといればいずれいいとこの嫁さんを貰って幸せになれるだろうに」

ガラスをテーブルに垂れた水滴を拭きながら笑い混じりに須藤が言った。

あらゆる情報の収拾に長けており、顔が広く、後輩の相談にもこころよく応じる須藤は、テニス部でも人目置かれており、直樹も同意するところだ。

ただ、人の心情に入り込む須藤の人付合いの仕方は、直樹のあくまでドライな付き合いと相反するものである。

いつもは話半分に聞いている言葉も、なぜかその日は気に障った。

「まだ、わかんないですから…色々と」

直樹にとって、結婚など実感のまるで湧かない未知のものである。

今の直樹には自分の将来のことを考えるだけで手一杯だったのだから。



 恋愛にしても……。

須藤が帰った後の短い休憩時間、温く冷めたコーヒーを口に含みながら思い返したことをはっきりと覚えている。

高校の二年のとき短い期間、あと腐れない関係ならと一度二度と女と共にいたことがあった。

橋渡しをしたのは須藤だった。

直樹は性欲と女に対する純粋な研究心からその関係を淡々とこなした。

しかし一度共にすると女には多かれ少なかれ独占欲がでてくるものらしい。

付き合い切れなくなったので、敢えてきつい言葉をこぼして関係を絶った。

つまるところ、高校生のうちに全く女に対して夢も希望ももてなくなったのだ。

直樹は胸のうち、これはあんな女を紹介した須藤にも原因があるのではないかと思っているが、直樹はもともと恋愛を、人間関係を蓮に構えて見ていた節があるから、もともとの価値観がさらにゆるぎのないものになっただけかもしれない。

結局のところ、やはり直樹には色恋のメリットが感じられないのだ。

それどころか、ペースを見出される苦痛に堪えてまで、性欲を発散させるためのパートナーを選び、その片割れと人生を共に歩む世の中の男性に、カップルに、両親に、直樹は尊敬の念すら抱いている。

つまり直樹にとっては、結局は後にも先にも女は自分のペースを見出しかつ欲にまみれた動物でしかなかった。

とても面倒臭い生き物。

そこに三年の春琴子が現れた。

ルックスだけで一方的に好意を持たれるところは、今までの女と同じだった。

ただ、直樹を好きだという、ただそれだけで、後先を考えず闇雲に行動を起こす。

こちらが根負けしてしまうほど視線を真っ直ぐと見据えて。

冷たく跳ね除けても、いつのまにかまた視線をこちらに向けてくる。

まれに視線が外されれば戻したくなる。

戻そうと少し行動を起こせば、幾分あっさりと達成される。

こちらを見ているのがわかると、自尊心のピースの一片が満たされる自分がいた。

直樹が一人になりたいと、一人暮らしを始める遠因ともなった女。



 その女が、ついさっき倒れた。

体を横たえていたソファに深く腰掛け、まだ血色に欠けた顔とうつろな瞳で直樹とその上司を見る。

バイトを切り上げて、琴子を家まで送れと……。上司に言われた手前、断るに断れないので、素直に了承した。

この悪天候、そして寒空の中、青白い顔をした琴子を一人で返すとなると、その後の琴子シンパの家族からのバッシングでうんざりするのは目に見えているのだ。

……そう、自分に言い訳を一つして、雪舞う道で途方にくれた結果、琴子を部屋に寄らせ、シャワーで温まらせるに至った。

琴子の食糧の買い出しに、直樹はまた雪舞う道を、追い風に乗ってコンビニヘ向かっている。



 買い出しとは言い訳にすぎないのだ。

直樹は、琴子と部屋に二人でいることに、落ち着きをなくす自分と、心地よさを感じる自分に戸惑っていた。

急場しのぎとはいえ、夜に男の部屋に誘われてついていく琴子ではない。

自分だからついてきたのだと確信していた。

信用されているからか、期待されているからか、それともその両方か。

それはわからないけれど、どうやら自分は相当に惚れられているらしい。



 こんな雪の日は、風の音しか聞こえてこない。

一人でいることに居心地のよさを感じていた自分でも、今日ここに誰かがいることだけで温かさを感じる。

忘れかけていたぬくもりを感じていた。

ここにいる誰かが、例えば誰でも良かったのだ……とも思えない。

自分に好意を寄せている何かなら、たとえ猫だって良いとも思えない。

直樹は、自分に困惑していた。

メリットが感じられないと。

うんざりしていた自分が、お膳立てをされても尚、それに乗っかってもいいと思えている。

あまりにも性急過ぎるのに、早く答えを出したくてたまらない自分を否定できなかった。



 ワンルームに男と泊まるということは、琴子には初めての経験なのだろう。

いや、間違いなく、男と密室で一夜を共にすること自体が初めてで、直樹をこれ以上なく男として認識しているに違いなかった。

空気の温まりの遅いボイラーに、言葉少なに琴子がうつむいていた。

琴子の腹の虫は、これからどうしたらいいのかわからない若い二人にとって、頭上から降り注ぐ天使の鐘の音のように、縋りたいほどありがたいものだったかもしれない。



「……どうしたもんかな」

白い息を吐き、直樹はつぶやいた。

角を曲がると、マンションの一階、小さなたたずまいながらチェーン系列のコンビニがある。

入り口で、足元のおぼつかない酒臭い若い男女二人が、腰を抱き寄せ合い左を掠めていった。

人の動きに、積もる雪がふわりと浮く。



 白米の小さなパックと雑炊の素と飲み物。

素早く手に取ると、直樹はぐるりと店内を一周した。

自動的に暖かい食事と毛布が出てきた実家での生活と比べると、直樹の今の暮らしは「その日暮らし」とも言えるものだった。

手元に無いものは、明日買えば良い。

これが自立かと問われれば、答えに詰まるところだ。

無いものねだりを繰り返し繰り返しするようなもので、一介の学生でしかなく、親に養われている身にとっては、駄々をこねて拗ねているだけに思えてならなかった。

雑誌コーナーを一瞥し、レジへと体を向けると、反対側に日用品の棚がある。

ポケットティッシュや綿棒と並んで、ポップに彩られた長方形の箱が、いくつか所在なさげに置かれていた。

勢いで一箱をつかんでかごに入れる。

必要かと自問すれば、いつまでも店内で立ち尽くしてしまう気がして、会計を手早く済ませてコンビニを出た。



 向かい風に乗った雪は容赦なく体を這う。

レジ袋の中から箱を取り出し、上着のポケットにそれを突っ込むと、すうと意気立っていた気持ちが治まるのを感じて、直樹は思わず笑みをこぼした。

抱きつかれたら、背に手を回してしまうであろう自分が容易に想像につく。

ただこの手に当たる堅い箱の存在が、想像と現実に彷徨う自分を自制してくれることは間違いない。

後はいつものように言葉で、琴子を自分のテリトリーに入れなければいい。

それを越えてまで忍び込む琴子ではないから。

直樹は袋を持つ手を強く握ると、家路へと急いだ。


2008年12月11日

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