dependence. > text > 密室の
いつもあたしは、入江くんの背中ばかりを見ていた。
広くて大きな背中を。
一人きりで風を切って歩いていく、その後ろをはぐれないように着いていくのが好きだった。
でもその入江くんの隣に、今はぴったりと寄り添う女性がいる。
だから、あたしが望む恋は、天地がひっくり返ったって叶うはずがない。
少しでいいから、今まで通り、1番近くにいさせて欲しいのに。
今日もあたしは泣かなかった。
入江くんの目の前では、泣かない。
あたしは、強い女ですか?
−−−−−−−−−−−
改築された入江家は、大胆な増築で部屋数が増えた。
洗面所やバスルームは、特に不自由さが認められなかったからなのか、
以前とかわらぬ場所に、同じ空間が残されている。
琴子が込み上げる眠気に耐え切れずあくびをしながら洗面所を開くと、
直樹がスウェットにTシャツの部屋着のままで、顔を洗っていた。
「あ、ごめん」
琴子は小さくつぶやくと、戸を開けたまま立ち尽くしていた。
直樹は目をつぶったまま、水を出しっぱなして、洗顔料の入ったチューブからいくらかを手に取り、
二度三度掌で泡立てると、それを顔にごしごしと塗りたくった。
「…もうちょっと、泡立てたほうが」
…いいと思うよ。
蛇口から勢いよく流れ出る水音に、琴子の言葉は小さくなる。
そのうち、ばしゃばしゃと顔をすすいだ直樹が、タオルを片手に、鏡ごしに琴子を見た。
「見てんなよ」
「ええっと、すぐ終わるかと思って。…き、今日は休みの日なのに早いんだね」
「デートだからな」
「ふ、ふぅん」
「ああ、顔がヒリヒリするな。おまえ、クリームかなんか持ってる?」
「う、うん。乳液でいいなら」
「貸して」
直樹は琴子の、小さくてキラキラしたボトルの蓋をとり、一気に逆さにした。
「あ、そんな勢いよくしたら」
直樹の掌に、乳白色のなだらかな山ができている。
「出し過ぎよっ」
「半分やるよ」
直樹は琴子の手首を捕まえると、その掌に半分をなすりつけた。
「ちょ、ちょっとこんなに…。第一あたしまだ顔洗ってないのにっ」
「しらねーだろ。…これ、いいニオイするな」
「薔薇の香りなんだって」
「ふーん」
「そんなにつけて、ニオイ消えないかも…さほこさんに嫌われちゃうかも…なんて」
琴子は目についたプラスチックの物入れに、掌の乳液をうつすと、手を洗った。
「…」
「…」
「…え、えっと、じゃああたし後にするから、ごゆっくり、ね」
「琴子」
「えっ、なに?」
「髪、ワックス切らしてんだよ」
「ワックス…。あたしの、使う?また、フローラルの香りだけど」
「…いいよ」
「えーとねえ、そうそう、これがあたし好きなのよね」
琴子は棚からいちごとぶどうのイラストがちりばめられたワックスを手にとると、直樹に手渡した。
「少ない量でも、伸びがいいからキレイにまとまるのよ、コツがいるんだけど」
直樹は、そのワックスを野球のボールのように手の中で転がし、ため息をついた。
「…めんどくせーな。おまえどうせ暇だろ」
「どうせとは何よっ」
「時間がねーんだよ、おまえさっさとやってくれ」
「入江くんの髪を?」
「…だから、そう言ってるだろ」
「…変になっても知らないよ」
「…」
直樹は洗面所の前に片膝をつくと、琴子を促した。
琴子は直樹からうけとったワックスを、人差し指に少しだけ掬い取り、両掌をこねて薄く伸ばし、直樹の髪の毛にざっくりと差し入れた。
前髪に触れた時、指先がおでこをかすめた。体温にあたためられた、とろとろの乳液の感触に、琴子は気付かないふりをした。
「ふー。できたよ」
「ふーん。まあまあだな」
直樹はため息をつくと、洗面所を後にした。
琴子がそのあと、たっぷりと時間をかけて顔を磨き、化粧をして洗面所を出ると、直樹はスウェットのまま、テレビを見ていた。
肌が妙につやつやで、やけにしっかりと髪の毛がセットされている状態にも関わらず、直樹は特に急ぐ様子もない。
いつものように紀子と話をしていた。
直樹は琴子と目を合わせなかった。
琴子には、直樹の不自然さ以外は、いつもと変わらぬ、休日の穏やかな時間に思えた。
琴子はその日の予定をキャンセルして、ベッドにつっぷして溶けるほど泣いた。
了
2009年3月21日