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ツケ

  依頼人が指定した待ち合わせの場所は山を上った奥の世俗から隔離されたような豪邸で、ミニクーパーは悲鳴をあげながらひた走った。仕事柄車を使う機会も多いし、撩自身メカニックな分野は不得手ではないから丹念にメンテナンスをしていたはずだったのに、日もとっぷりと暮れ、いざ帰宅しようとエンジンを回すも、車はうなり声を二度、三度とあげて動かなくなった。依頼人が趣味で買ったという流線型の車はいかにも巨大な昆虫のようだと香は形容したが、撩はとても気に入り子供のようにはしゃいだ。その後撩がクーパーを何度か動かそうと試むも事態は好転せず、香は依頼人の好意を受け入れた。
  急ぎ、引き返して早朝に戻る必要があった。依頼を遂行するには、血なまぐさい──撩に言わせれば馬鹿らしい──銃撃戦も覚悟しなければならないことは明白で、ある程度武装する必要があったのだ。しかし車が動かなければどうすることもできない。海坊主に電話を入れて彼の装備の一部を借りるという選択肢も二人の間で持ち上がったが、香はそれを拒否した。なにせ、久しぶりの依頼なのである。
「こんな車運転できるチャンスなんてめったにないし、まあいいけどさぁ、海坊主にちょちょっとさぁ。やってもらえばいいんじゃねぇ? 楽できるし僕ちゃん」
  撩が海坊主に借りを作るとき、撩が海坊主に礼として返すのは、せいぜいがしばらくはキャッツで自分と香の喧嘩を避けることくらいだったので、撩はいぶかしがった。
「……お金」
  香は顔を伏せたまま答えた。撩は、家に入っていく依頼人に軽く礼をして香の頭頂部を見つめた。
「なんかお前、頭でかくなってねぇ?」
「お金がないから髪の毛切りになんて行けっこないでしょう!」
  香は顔を上げて撩の胸倉をつかんだ。怒りを存分に含んだ声とうらはらに血が通っていないのではないかと思うほどに表情のまったく感じられない香に、撩は狼狽した。香は怒りのゲージが振り切れたかのように、怒り顔を作ることさえわずらわしいと淡々と撩を責める。
「あんたはいいのかも知れないけど、美樹さんにお礼してるの知ってて言うの?」
香の地を這うような低いつぶやきに、撩は思わず後ずさった。いや、首元をひねりあげられているから、正確には足元がえびぞっただけである。
「お礼の意味、わかってて言ってんの?」
「えっ、と、ハイ……」
「何ヶ月ぶりの依頼かわかって言ってんの?」
「は、はいっ」
「その間も飲みに出歩いたり、それもツケでよ!? キャッツだってあたしは節約のためにコーヒー一杯がせいぜいなのになんであんなにあんたのツケが溜まってんのよって話よね」
「え、えっとですね」
「黙れ。ツケがきくからって、ナンパした女の子をキャッツに連れて行くのはいいのよ別に」
「はっ、い……良いのでありますか?」
  撩は口に出してから、手で口を覆った。
「いいわけないだろ、バカ!」
「く、くるひいので離し……」
「なんでいいところ見せようっていうのが少しでもあたしに向けられないわけ?」
「か、香ちゃん、ちょっと話がよく」
「あたしより先にキャッツに一人でいると思ったら、あたしより先にいなくなるわよね。あれ絶対あたしに払わそうとしてるんでしょう。絶対そうよね、そうに決まってるっていうかそうとしか思えない!」
  香の手を離すなど撩にはた易いことである。が、撩は香にされるがままになっていた。ここまで怒らせておいて、男の力で返り討ちにすることは逆効果どころか火に油である。
「たまにはあたしの分も奢るよ香、とか言ってほしいものよね。そりゃ元のサイフは同じだけどそういう配慮とか姿勢とか家計をやりくりするあたしに対する敬意とか、そういうものが感じられないのよね。そりゃあたしは仕事では撩にはかなわないわよ。かないっこないでしょう。あんた強いんだもん。さらわれるのも慣れたわよ。馬鹿な男があたしを変な目で見てきたときの対処だってうまくなったわよ」
「た、対処って……」
「つま先に硬いもの仕込んで蹴り上げるだけよ」
  香は撩から手を離して、右足の先を撩の股間にぴたりと当てた。
「ひぃっ」
「本当はとがったヒールでぶっ潰したいところだけど、いつもローヒールだもの、しょうがないわよね。動きやすさ重視ってのは鉄則だものね」
「そっ、そうですね……。あの、足避けて……」
「あ、でも」
  香の足がさらに上がる。撩はずり上がるスカートの奥を見ていた。むっちりとした太ももの奥に白いものが見えて、顔がだらしなくゆがむ。
「結構ローヒールでもいけるかもしれないわね」
「しっ、白……」
  ヒールが撩の股間にめり込む。撩は吐き気を伴う鈍い痛みに、股間を押さえてうずくまった。
「ホント、銃をぶっ放すやつらとかってなんであんなに行動パターンが同じなのかしらね。一人使い物にならなくしたらもうあたしに手なんて出してこないのよ。あたしを押さえつけてた手を離して自分の股間押さえて後ずさっていくのは、あれは結構面白いわね。それにしてもあのむにゅっとした感触はあまり好きにはなれないけど」
「くぅっ……」
  まだ鈍い痛みが残る中、撩はあらゆるものが縮み上がるのを感じていた。言うまでもなく顔面蒼白である。
「あれ、ぐりぐりっとしたら」
「も、もうやめて……。おっ、俺が悪かった!」
「謝ってもらってもツケは減らないわよ! あ、そうよね、ツケの話だったわ。忘れてたけどあんたね」
「わ、わかった! ツケは作らない! 金輪際!」
「ふん、どうだか」
「とりあえず、車に乗ろう。な? 明日朝早いだろ?」
  撩はやっとの作り笑いで香の背中を押した。
  
  ***

  依頼人の車は「カウンタックLP400」という。四半世紀以上前にたった150台しか生産されなかったスーパーカーであり、現存するものも限られている。撩はその走り心地を堪能する余裕もなく、ただひたすらに家を目指した。香をこれ以上怒らせないよう、最善の注意を払いながら。
  山々の間から、遠くに新宿の夜景が望めるようになったころ、車と車の密集率が高くなった。のろのろと動く隊列のはるか向こうに、ひしゃげた何台かの車が見える。
「くそ、事故かよ」
「どこか抜け道ないの?」
「もう暗いからなぁ。あるにはあるが、もし俺たちも事故を起こしたら車代で破産だ、破産」
  香は先ほどまでの怒りを思い出したかのように目を三角にして撩の頬をつねった。
「事故起こさないように、あんたが、気をつければいいだけでしょ!」
「わっ、わかりまひたぁ……」
  撩はそれこそ命を懸けて運転した。崖からタイヤがはみ出して土や石が音を立てて崖を滑り落ちていったときなど、背筋が凍るどころではなかった。そしてそんな撩をよそに、香はくうくうと寝息を立てていた。

   ***

  やっとのことで家につくと、撩は全身の力がどっと抜けたようにソファに倒れこんだ。同時に、押さえつけられていた食欲と性欲がわいてくる。撩は香が今日ずっと不機嫌だったこともすっかり忘れたかのように、いつものように香に声をかけた。
「かおりぃ、腹減った」
「マルちゃんでいいわね?」
「マ……マルちゃん?」
「最後に買出しに行ったのが二週間前。うちにはもうインスタントラーメンしかないのよねぇ……」
  香の低い声が冷え切った部屋に響いた。
「ぼっ、僕作ります! お、お疲れだと思いますので香さまの分も」
「あらそう? そういえば卵が……」
「なんだ、卵があれば……。それでもひもじいが」
「卵は一つしかないから」
「へ?」
「あたし、お店で食べるラーメンも好きだけど、インスタントラーメンに卵だけのラーメンってすっごい好きなのよね」
「そっ、そうなんですか……」
  撩はうなだれて台所へ向かった。撩がすべきことは一つしかない。くつくつと煮えるラーメンに卵をひとつ落とし、唇を噛んで香に差し出した。

   ***

  撩はシャワーこそ香に先を譲り部屋に入ったが、食欲さえも満たされなかった彼に、おとなしく寝ろというのは無理な話である。ぺたぺたと廊下を歩く香の足音が近づいてくるのを見計らってドアを開け、甘ったるい石鹸とシャンプーの香りのする身体を確保してベッドに引きずり込んだ。
「ちょっ、ちょっと! 今日はだめだってば! 明日早いし……」
「俺さぁ」
  撩は香の耳元でため息混じりにつぶやいた。
「きゃっ、くすぐった……」
「一応仕事は請けた。で、なんで怒らせたんだっけ」
  香は飢えた狼のように荒々しい撩の吐息に身を縮こまらせた。
「やっ、もうっ……」
「なぁ、なんでだっけ?」
  撩の手のひらが香の肌を撫で回す。
「やだぁ、ちょっともうっ、わっ、忘れちゃったわよぉっ……」
「なんでだったかなぁ? なぁ香」
「わ、わかった、からっ……、電気、消して……」
「香が思い出すまで、消してやんねえ」
  それから部屋の電気がいらないくらい外が明るくなるまで、撩は言葉と身体で香を攻め立てた。

   ***

「そうだ、ツケよ!」
  充分に満たされ、惰眠をむさぼっていた撩は、やっと怒りの原因を思い出した香にたたき起こされた。文字通り裸のままベッドで正座させられ、これまた何も身にまとっていない香にとうとうと説教をうける。
「もう、ツケは作らないって言ったわよねぇ……」
「そ、そだっけ?」
「あんた、しらばっくれる気?」
「ひぇっ、滅相もございませんっ」
「着替えて」
「はいっ」
「二分で服着て」
  香は撩が剥いだ自らの服をかき集めると、足音を響かせて撩の部屋から出て行った。
「あれぇ、でもナンパはいいっていったよなぁ……?」
「言ってないわよ、バカッ」
  家が傾きそうな音を立ててドアが開き、撩の顔に香の服が命中した。

  ***

 シティーハンターを敵に回すとやっかいなことになる──そしてその相棒はもっとやっかいである、とは、昔々から伝説のように語り継がれてきた。なじみの新宿の住人たちは、今日も撩がナンパにいそしむ姿を見て「こりない奴だ」と笑う。だが、美樹と海坊主だけは気づいていた。撩が外でお金を使わないよう──財布さえも持たされていないであろう──おそらくはコーヒーの類のものが入ったマグボトル、いわゆる「水筒」の存在を。最初に気づいたのは海坊主である。最近撩は、美樹の不在時にキャッツへと足を運ぶ。そしてなにも注文せずごそごそと隠し持っていたもので喉を潤して帰っていくのだ。目が見えずとも、かすかなコーヒーの香りと気配で海坊主には全てがお見通しであった。朝の飲み残しのコーヒーをせっせと「水筒」に注ぎ、香の目を盗んでナンパに明け暮れているなど哀れでならないが、いつまで続くのだろうというのが海坊主と美樹の間でのもっぱらの話題である。そして最も二人が興味を抱いているのは、万が一ナンパに成功したとして、その香お手製であるところのコーヒーを、相手の女の子にも飲ませるのか、である。

2011年6月7日up

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