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涙なんかでない

入江くんの話す言葉の端々が、あたしを刺していた。
あたしの心は、いつのまにかできた指のささくれになって、入江くんの零す一筋の醤油に沁みていた。
でももうあたしの指先はもう新しく沁みるところはなくなって、きっと両手で受け止めても何も感じない。

「じゃあ忘れてみろよ」

入江くんの顔が視界から消えた。ワンテンポ遅れて唇が生温かいもので塞がれているのに気づく。ああキスをされているんだなと思った。乾いた粘膜が触れ合って、自分の鼓動だけが耳のすぐ近くで聞こえた──


目を閉じて思い出そうとあがいてみても、あたしの記憶はそこで途絶えている。
振り返るどころか立ち止まってくれなかった人。時折見せる優しい顔や仕草に、あたしは翻弄され過ぎていたのかもしれない。

あたしはいつの間にか頬を伝っていた涙を手の平で押し上げると、金ちゃんと遊ぶための服をクローゼットから引っ張りだした。電気を消して目を閉じても目の裏に思い浮かぶのは、やはり入江くんの顔だった。

 

2009年6月7日ブログ掲載、2009年7月19日再掲載

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