dependence. > text >かたちのある

かたちのある

 この頃には真夏日を記録することもそう珍しいことではなくなっていたのだけど、室内にたちこめる熱にとうとう音を上げたのはお父さんだった。ここ何日かだけだからと説得するけれど、これでは眠れないとビールの瓶の汗を拭く。 やがて荷造りも佳境に差し掛かった頃、これ以上風のない室内で過ごしたくはないとお父さんが音を上げ、壁の上部を占領するこの大きな箱がやってきたのだ。

 大きな箱は低く音を立てる。手元のリモコンボタン一つで風が吹き抜けていく。指先一つで空調を操ることの出来る魔法の機械。あたしはとても怖くて、驚いた。

 「塾みたいだね」 つぶやくとお父さんがつられて小さく笑った。

「一生懸命勉強したみたいな口きくじゃねえか」

 何度か友達と過ごした幾年前の夏のことが思い出される。背中が凝り固まるような緊張を強いられる塾で、必死に数字や英語と格闘していた夏のことを。 ──何を目指すにもまず学歴ありきと、身の丈に合わぬ高校を受験すると決めてから、お父さんはあたしの望むことを、どんな小さなことでも拾い上げ、無理難題の一つ一つを丁寧に潰してくれた。

 生活に苦しかったわけでもないし、特別裕福だった覚えもない。 ただ高校に合格し、家を建てようかと告げられた日に同じ顔をして一言、謝られた事がある。 「かあさんがいなくて、すまん」と。記憶の中のお母さんはいつも笑顔だった。もはやあたしには、それが写真を見た記憶をなぞっているのかも分からない。泣いて泥になって眠り幾年か経つ頃には、その前後の記憶がやわらかい風に吹かれている風船のようにたなびいていた。突風が吹いて公園の木の枝にひっかかると、取れないから取ってとお父さんにせがむ。お母さんと見た景色を失うことになると泣いたかもしれない。笑い顔のお母さんの、あたしを呼ぶ優しい声がもう手に入らないことを本当に知ったのは、住み慣れた我が家でさえ永遠ではないと気づいたその時だった。

 形のないものこそ、失うことはない。あたしはここを引き払う時に苦しまないように、告げられて仮宿に移り住む初夏までの間に必要最低限の物を確保して身辺の整理をすることに努めていた。

「まだ動くのにぃ、あれ、扇風機。でもこんなにエアコンが快適なんて!」
「まだ7月に入ったばっかりなのにな」
「贅沢だよねー、おとーさん無理したんじゃないのぉー?」
「いんや、これは壁から外してあっち持って行くからよ」
「捨てちゃおうか、これ……」

 閉め切られた窓の前、座椅子のすぐ隣に陣取っているくすんだ青の扇風機が、電源を抜かれて所在無さげにたたずんでいる。音を立てて回る割にはぬるい風ばかり運んでいたこのプロペラも、グラスと氷のぶつかる涼しげな音が似合う夏があった。かつてお母さんと貼った、かわいらしいキャラクターのシールが黒ずんでいる。いつのまに年月が経ってしまったのだろうか。

「いや……」
「だって、エアコンあったら扇風機要らないよ?」
「かあさんと一緒になって、初めて買ったキカイなんだよ」

 埃のついた網を指でほろいながら、お父さんの横顔が遠い目をした。

「いつか、使えばいいからなあ」

 黒ずみ破れたシールもお母さんと共に過ごした遠い記憶がつまっているから、あたし以上にお母さんと同じ時間を過ごしたお父さんにもまた、同じような夏があるのだろう。

「……うん、わかった」

 新居が出来たらコンセントを入れよう。きっとその頃には納戸の奥深くに沈んでいるだろうけれど、せめてこの家にいる間は忘れないようにしようと思う。今年も本格的な夏が来ようとしていた。

2008/8/1脱稿、2009/7/15加筆修正ブログup/2009/9/4加筆up

拍手する

inserted by FC2 system