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澱み

気持ちが悪い。

廊下を照らすやわらかな橙が眩しくて目が潰れそうだから、一刻も早く部屋に戻りたいのだけど。
うまく階段を昇ることができない。
自分の頭や体が思うように動かないのは、
最近きつい実習が始まったから。
有り体にいえば、俺は今、疲れが溜まっている。

やっとの思いで寝室のドアを開けると真っ暗な闇が覗く。
締め切った室内はひどく空気がぬるくてやはり気持ちが悪かった。
自分が思うより、疲れているのだろう。
もはや歩くことすら面倒で、ドアを閉めるにも、部屋の電気をつけることにも気力が沸かない。
やっとの思いで部屋の入口に体をねじ込んだ。
目線がうまく定まらないから、ゆっくりと瞬きをする。
廊下からもれる光が、ベッドサイドに置かれているフォトスタンドに反射するのが見えた。
額には結婚式にふたりで撮った写真が飾られている。

確かにウエディングドレス姿の琴子は美しく眩しく、愛しい。
しかし隣に写る自分のにやけた顔は吐き気すら覚えるものだ。
今考えると、世間様に披露するという行為がまったく意味のないものにしか思えない。
あの時の俺は頭にうじが沸いていたとしか思えないほど、恋情におぼれていた。


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入江くんの食欲がないとお義母さんが嘆いていたから、夕食の準備を申し出た。
喉越しよく食べられるように、冷や奴にはみょうがを乗せて。
鮮やかな緑と黄色の、見た目にも美味しいそら豆と卵のサラダはマヨネーズを混ぜて油分を補う。
胡椒をぱらりとかけて、甘くなりすぎないように。
それから茄子のお味噌汁と、五穀米を混ぜたごはん。
メインには、焼いた鮭を一切れ。大根おろしを添えたら、デザートにはりんごを剥いて。
いずれも、失敗しないようにお義母さんに手伝ってもらいながら作ったのだけど、我ながら美味しく出来た、と思う。

「おかーさん、どうですか…?」

まだ入江くんは帰ってこないから、あたしはお義母さんとでテーブルを囲むことにした。
毒味の意味もあるのだけど。

「美味しいわよ、琴子ちゃん!きっと愛のパワーでお兄ちゃんも元気になるわ!」

「…だといいんですけど」

「大丈夫よ!」

お義母さんの言葉と時を同じくして、玄関の鍵がカチリと外れ、チャリンと鍵同士が鳴る音が聞こえたから、あたしはエプロン姿のまま廊下に飛び出した。

入江くんは俯いて、足を玄関の縁に打ち付けて靴を脱いでいる。

「入江くん、おかえりなさい!」

「ただいま」

階段をあがる入江くんは俯いてこちらを見ようとしない。
相当疲れているんだ。食べてくれるかな。
期待をほんの少し込めて、あたしは入江くんの背中に声をかけた。

「今日はね、あたしがご飯作ったんだよ?さっぱり食べられるものばっかりだからきっと…」

「今日は、もう寝るから」

入江くんの背中が遠くなっていく。


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階段を上りきり、階下に目をやる。
なにか言いたげな琴子の目がまっすぐこちらを見据えていた。

「ゆ…ゆっくり休んで、ね?」

「…おやすみ」

ドアを開けると、また真っ暗な闇に包まれた部屋にフォトスタンドが光った。

屈託のない琴子の笑顔が、先程見たおどおどとした琴子で塗り潰されていく。

思わずフォトスタンドに近づき、力任せにそれを伏せる。

サイドテーブルとガラスがぶつかるガチャリという音が、暗い部屋に味気なく響いた。


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知った風な口を利く餓鬼がいる。

琴子は不器用で要領も悪ければ物覚えも悪いから、看護科に転科すると知ったとき、どうしても辛い時は手助けしてやろうと思った。
自分の夢を追いかけてきたかけがえのない存在。
琴子はなにもできないけれど、根性を認めて、伸ばしてやれるのは自分だけに決まっている。

俺以外の男が琴子を肯定したところで、そいつにどんなメリットがあるというんだ。

俺と琴子の関係に首を突っ込む滑稽な趣味の持ち主は、名前を鴨狩という。
琴子とふたり、実習を終えて今背中越しに俺を責めていた。

「たかが採血になに手間取ってんだよ」

「琴子だって頑張ったんだ」

すう、と頭皮が粟立つ冷たさを感じた。頭に血が集まるのが分かる。
琴子がなにかを成功させる時は、少なくとも人の何十倍も努力をした時だ。
頭の悪い餓鬼は姦しく叫び散らすことしか出来ないらしいが、
とうに知っていることを声高に主張されたとて、反応に困るのはこちらだ。

だから、お前に何が分かるんだよ。

「良いの、啓太。あたしのせいで待たせちゃったんだもん」

琴子の声が随分と小さく響く。他人行儀ないでたちでひどく味気ない。

だから、お前らになにがわかるんだよ。


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夕日が雲に隠れて薄い闇の中をじんわりと照らす。
あたしは一人、道端の小石を転がしていた。
石を前に進める。ころころと音を立ててまたその先の小さな石にぶつかり止る。
その分だけ歩みを進めてまた蹴る。

またヘマをしてしまった。

小さい頃、落ち込んだ自分を癒してくれるのは友達やテレビだった。
夜中に声を殺して泣き、朝方のお父さんの帰りを待つこともしょっちゅうあったけれど、
自分の為に働き疲れたお父さんにすがるのははばかられたから、
だからあたしは泣くのを止めた。
そうしたら、いつのまにかあたしに根性というものが備わったみたいだった。

縁あってお世話になった入江家。お義父さんとお義母さん。そして裕樹。
入江家のみんなとお父さんに見守られて気概で勝ち取った入江くんの妻という座。
ふりむいてもらえないはずの人と結婚することが出来て、
あの時以上の困難はやってこないと思っている。

そう信じて過ごしてきたけれど、やはり毎日のように起こす失敗に、
時々泣き叫びたくなるくらい落ち込むこともある。

こんな日は、あたたかく迎いいれてくれる家族に助けられるから、
いつものように前を向いて、気持ちを明るく持って。


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「入江、もう帰っていいぞ」

背後から教授の声が聞こえて、初めて自失していたことを知った。
手元には使いっぱなしの実習器具が乱雑に置かれ、レポート用紙は真っ白なままだ。

「…すみません。まだ終わっていないので…、もう少し残ります」

「そうか」

体の右半分だけ振り向き会釈をすると、教授は軽くうなづいてドアを閉めた。

そういえば、先ほどそのドアから中をうかがってきた琴子はどんな顔をしていただろう。
忘れてしまった。


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「琴子ちゃん、今日は私がお夕飯の支度を全部するから、ゆっくり休んでちょうだいな」

「そうですか?じゃあお茶、入れておきますね」

「ええ、リビングででもくつろいで待っていてね」

炊飯器をセットしたところでお義母さんがあたしを台所から追い出した。
その足でまずリビングに向かう。

「入江くん、お茶、飲む?」

新聞に目を落としていた入江くんが視線はそのままで背を向けて言った。

「ああ」

「琴子ー、僕にも」

同じような体勢で本を読みながら裕樹が同調してきた。相変わらずずうずうしいんだから。

「裕樹は自分で入れなさいよ」

「なんだよケチ!」

「入江くんは特別なの!毎日勉強して疲れてるんだから」

「僕だって」

「裕樹とは次元が違うの!でもしょうがないから入れてあげる」

「恩着せがましいなー」

最近、入江くんは言葉が少ない。
入江くんは狭く深く人と付き合うタイプだけど、その限られた近しい関係にあるあたしにも言葉すくなであることが、あたしには悲しかった。


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おふくろと琴子の高い声がリビングに響く。
いつもの夕食をいつもどおり食べる、そんな振りをする。

腹などもとから空いていないけれど、先ほど思い出せなかった琴子の顔が見たくて、箸を口へと動かしていた。
あの男の名前が出てくるまでは。

「啓太ってすごくいい奴だし」

ほうれん草独特の苦味が舌にまとわりつく。
紐をかんでいるかのようで、うまく飲み込めないどころかひどく単調で味気が感じられない。
キリキリと胃がきしんだ。

「どうだっていいよ、そんな話」

箸を置き席を立つと、目の端に、沈む琴子の顔が見えた。
俺が思い出したかったのは、そんな顔じゃない。

…腹が立つ。
一瞥して大げさにため息をつくと琴子が顔を勢いよく上げたから、それに満足してリビングを出た。


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何杯飲んだだろう。
あたしは酔えない自分にうんざりした結果、今啓太に後ろを抱きしめられている。

入江くんが最近冷たいのは気のせいではないと思う。
あたしは入江くんが大好きだから、その行動のすべての意味を知りたいと思うけれど、
あたしに無関心な理由は聞きたくなかった。

でも今日学食で入江くんと会って思ったことがある。

おそらく、間違いなく、入江くんはあたしをなんとも思っていないんだ。
認めたくないけれど…。

「やめちまえよ、あんなやつ」

啓太の言葉が耳元で響く。
入江くんはあたしのことが好きじゃない。だからあたしの行動に興味がないんだ。

あまりにも残酷な現実に、啓太のぬくもりが寂しかった。

あたしは今、なにをしているんだろう。


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俺は今なにをしているのだろう。

相変わらず空気が澱み風のない自室に一人でいると、肌に湿り気がまとわりつく。
冷静沈着な判断を下すのが俺ならば、腐った思考を処理できないほどに落ちぶれた俺はどこで道を踏み外したのだろう。

鴨狩という男と琴子の存在が、頭の片隅から離れない。
くだらないことに頭を突っ込む琴子も、琴子にかまう鴨狩も、頭が悪すぎて付き合いきれないと思うのに。

あの琴子のことだから、今頃鴨狩に酔いにまかせて連れまわされているかもしれない。
それでもいい、関係ないとつっぱねる自分と、今目の前にいたらすがって離さないであろう自分が存在している。
判断がつかない以前の問題だ。俺はこうも女々しかっただろうか。腹立たしいことこの上ない。

きっと今夜も一晩中まんじりともせず夜明けを待つことになるのだろう。

琴子のいない夜が更け行く。

2008年8月12日

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