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ほかになにをのぞむの

 夜の十一時を回っても、入江くんはまだ帰ってこない。あたしはプレゼントを手に、居間をうろうろと歩き回っていた。

 どうしても今日中に、入江くんに渡さないといけない。今日でないと意味がない。誕生日は一年に一度しかないのだから。

 エステの帰りにおばさまと選んだ、少し値の張るボールペンが、手の中でカタカタと鳴る。あたしはいても立ってもいられなくて、冷蔵庫を開けた。ミニサイズの缶ビールを音を立ててあけ、一気に飲み干す。喉をアルコールが伝って食道を通り、胃に落ちていく。全部飲み干したとき、あたしは張り詰めていた気持ちが開放されるのを感じた。

 ソファに身を投げて、目を閉じる。ふわふわしてとても気持ちがいい。そのまま目を閉じて酔いに浸っていると、玄関から鍵が金属を撫でる音が聞こえた。

「いっ、入江くん!?」

 ふらつきながら廊下に出ると、ネクタイを肩に跳ね上げた入江くんが、重たそうなカバンを玄関に置くところだった。

「おっ、おかえり」
「ああ」

 片手を後ろにやってプレゼントを隠し、もう片方の手でカバンを持ち上げようとするも、カバンはぴくりとも動かない。

「無理だよ、PC入ってるから」
「家でも、まだお仕事?」
「まあな」

 入江くんはあたしの髪の毛をくしゃりと撫でて、階段を上がっていった。

「入江くん、ちょっと、あのお話が」
「なんだよ酔っ払い」
「き……、気づいてた?」
「顔真っ赤」

 部屋の前まで着くと、入江くんはあたしを振り返って口の端を少しだけあげた。目は充血していて、かなりの疲労がたまっているのが分かる。早く寝かせてあげたい。

「どうかした」
「あの……あまり無理しないでね」
「まぁ、適当にやるよ。……で、後ろに隠してるのは何」
「えっ」

 思わぬところから指摘されて一歩後ろに下がると、ふわりと身体が揺れた。

「っと、あぶね」

 酔いがまわり、身体の感覚が麻痺しているらしい。階段を踏み外したと思ったときには、入江くんの腕の中にいた。入江くんの体温が熱くて、あたしは何も考えられなくなる。ずるいと思う。

「なにやってんだよ」

 入江くんはあたしの背中をあやすようにとんとんと叩き、髪に顔をうずめてきた。

「……いつもと違うにおいがする」
「あっと、えっと、エステ行ったからからかな」
「ふぅん」

 入江くんが腕を緩める。見上げると、息を吸う暇もなく唇をふさがれた。柔らかな唇がそっと触れては音を立てる。くすぐったくて笑うと、入江くんはあたしの髪をかきあげて壁に押し付け、さらに強く唇を押し付けてきた。生温かいものが唇の間から入り込んで探るようにあたしの口の中へ入り込む。二度目だ、とあたしは思った。あの雨の日以来の、二度目の深いキスだ。口の中を余すところなく探られて、あたしはもうそれ以上考えられなくなった。

「んっ……、んんっ」
「……琴子」

 入江くんは名残惜しげに音を立てて唇を離し、あたしをきつく抱きしめた。入江くんの背広に顔をうずめると、タバコの匂いに混じって、甘い匂いがした。あたしをひきつけて放さない、入江くんの匂い。心地よくて、あたしは足に力が入らなくなり必死に入江くんにしがみつこうと背中を握った。

「きゃ、わわっ」

 その瞬間、入江くんはしゃがみこむとあたしの背と膝下に手を入れて横抱きにし、ドアを蹴り上げた。目が回る。背中にやわらかいものを感じて目を開けると、月明かりに照らされた入江くんがあたしを見下ろしていた。

「えっと、えっと、ここ、ベッド……!?」

 シーツから、枕から入江くんのあの甘い匂いがする。入江くんは押し黙ったまま、ネクタイを雑に解き始めた。今まで味わったことのない重々しい空気に、あたしは必死に入江くんに呼びかけた。

「いっ、入江くん!? あの、あたし、あの……」

 入江くんは一言も発しない。裏返ったまま背広が床に落ちていった。布の擦れる音と、入江くんの吐息に、あたしは言い知れぬ恐ろしさを感じた。入江くんに初めて男性を感じた。

「あっ……、あの、いっ……」
「……泣くなよ」

 入江くんはあたしの目じりを指で擦って頭を振ると、ベッドから起き上がった。

「……風呂、入ってくるから。早く寝ろよ」

 入江くんは背中越しにそう言うと、背広を拾い上げてハンガーにかけた。

「あの、あのね、嫌とかじゃなくて、あの……あの」
「……悪かった」

 入江くんはぼつりとつぶやいた。あたしは何も言葉に出来ず、ドアの閉まる音だけを聞いていた。あたしは涙をこらえることが出来なかった。あたしには覚悟が足りないのだ。どこか現実味がなくて夢を見ているようだったけれど、入江くんはきちんとあたしを受け止めてくれているのだから、それに応えなければいけない。そうでないと、二人でいられない。

 あたしはプレゼントをそっと机の上に置いて自分の部屋へと戻った。あたしは勇気を持たなければいけない。入江くんを真正面から、全て受け入れる勇気を。

***

 まだ薄暗い中、トイレに行こうと階段を下りると、玄関から物音が聞こえた。

「だ、誰?」
「ばーか」

 そろりとしゃがみこむと、入江くんが昨日と同じく背広を着て、あの重たそうなカバンを手にしていた。

「い、入江くん早いね」
「行ってくる」

 入江くんの胸元に、きらりと光るものを認めて、あたしは転がり落ちるように階段を駆け下りた。

「うるせーな」
「あの、入江くん! 誕生日おめでとう! ボールペン……っとっと!」
「いってぇ……」

 勢いが良すぎて、入江くんの胸に身体ごとぶつかってしまった。頬に胸にささったボールペンが当たる。

「ごっ、ごめん」
「じゃあな」

 頬に触れるだけのキスを残して、入江くんは背を向けた。少しだけ勇気を出して背広をひっぱると、入江くんは呆れたようにため息をついて振り返り、優しい唇であたしをふさいだ。

「……覚悟しててよね」
「なにがだよ、ばーか」

 にやりと笑うと、入江くんはあたしの頭を小突いて不機嫌そうに眉を寄せた。少しだけ入江くんと真正面から向かい合えた気がした。


 

 

2010/11/12up

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