dependence. > text > Sより5の御題 >3.sweet(優しい、甘い)
息を殺して冷たい階段を登りきり、重いドアを押す。
月夜と少しのライトに照らされ白く光る、いつものメンバーがいた。
「おぅ、せんせー、今日も来たのかい」
直樹はほっと息をつき、片手をあげた。
「…お邪魔します」
直樹にとっての職場であるこの病院は、緊張をしいたげられる場所でありこそすれ、けして居心地のいい場所ではない。
患者となった今も同じで、むしろ勤務時よりもやることがない分、体のおきどころが見つからない。
リハビリも始まり、ある程度なら松葉杖を使わずに歩ける今となっては、静か過ぎる夜がなにより苦しいのだった。
病室でテレビを見ることにも、カルテをチェックするにも飽きてしまった深夜は、こうして屋上に集まる不良患者の輪に入る。なにをするまでもなく煙を揺らせて、しばらく風に吹かれた後、解散する。
直樹は柵にもたれかかり、煙草を受け取る。左手で風を隠し火をつけると、心地のよさにため息が漏れた。
「せんせー、美味しそうに吸うねぇ」
直樹に煙草をよこした患者が笑う。
頭頂部の毛がそよそよと風に泳ぐ。その様を見て直樹の頭の中でやっと名前と顔が一致した。
「琴子ちゃん、なかなか元気があってかわいい子じゃないの」
「ご迷惑かけてませんか?」
「今日はいきなり廊下で派手に転んでたなぁ」
「あはは、あれはすごい音がしたなぁ」
缶コーヒーを片手に、含んだ笑い声で別の患者が続ける。
「その後、大きな声で"ごめんなさい"ってな、元気が良いの何の。せんせーのモンじゃなかったらうちの嫁にしたいくらいよ」
「それは言いすぎでしょう」
「確かに言い過ぎたわ」
闇夜に不良中年患者の笑い声がこだまする。
そりゃ確かに言いすぎだ、わはは、でもよ。
「いや確かに癒されるんだよ」
一人がうんうんうなづくと、隣の患者も中腰になり続く。
「いやいやいや、琴子ちゃんに選ばれたせんせーは幸せもんだぁ」
とんとんと腰を叩き、痛いと一言漏らすから、直樹はすこし現実に立ち返り病室に帰るように促す。
それを合図にいっせいに不良たちが立ち上がった。
「寝るか」
「俺、明日検査なんだよ」
「絶食かい」
「じゃせんせー、ごゆっくり」
直樹は、ドアに向かう患者たちを柵にもたれて見つめた。
ドアの奥、非常階段は暗く、月に照らされた屋上が明るく感じる。
手元で煙る煙草をくわえようと下を向いたとき、金属のぶつかる大きな音と人の気配がした。
「んー…誰かいるの?っってぇ!?」
「うわぁっ」
「なんなのあんたたちーっ!?」
「がぁぁ、琴子ちゃんっ」
「けむたっ!煙たいんですけどっ!!全面禁煙なのにっ」
ドアを蹴破らんばかりの勢いで現れた琴子が、屋上で仁王立ちしている。
患者たちは突然のナースの登場に慌てふためき、行動機能が停止してしまったようだ。
琴子は患者たちをひと睨みしたあと、ゆっくりと視線を屋上の端の直樹に見やった。
「よう」
「い…入江くんっ!?」
「月見日和だな」
「…もう、このオジサン、明日検査なの知ってるでしょう!?」
「オジサンっていうなよ琴子ちゃん…」
オジサンだけどさ。患者の声は小さく、宙に消えた。
「仮にもお医者さんがいるのにっ、なんで止めないのっ」
「旨いから」
「旨いから、じゃないっ」
「そーだそーだ、煙草は旨い」
「オジサン黙ってて!」
直樹に噛みつかんとする琴子の勢いに患者もあわてて加勢するが、その努力はむなしく沙汰やみとなる。
「わかったよ」
直樹は火を消すと、柵からゆっくり体を起こした。
「はい!解散解散っ!」
琴子はそれを見止めると、パンパンと手を叩き患者たちを階下へ追いやろうとする。
しょぼくれた患者たちは直樹に哀れむような視線を投げかけ、静かにドアを閉めた。
「入江くんも、寝るよっ」
肩を貸そうと琴子が直樹に近づく。病院というシチュエーションに似合わぬ、苦い香りが鼻をくすぐる。
「…寝れないなら、お話しに行くのに」
直樹はまだ甘えたりない気がして、琴子の手を引き頭をやんわりと抱いた。
「ここで話すか」
「…なんの話、する?」
「まずは…、昼間何に躓いて盛大にこけたのか教えてもらおうか」
「っ…!!相変わらずすごい情報網なんだからっ」
腕の中で琴子が身を硬くする。逃げてしまわないように、直樹は少し力を込めた。
髪の毛に顔を寄せ頭をもたげる。整髪料の甘ったるい香りがした。
了
2008年8月20日