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風のベッド

 部室の床は、何年前、いや何十年前に張替えられたものなのかわからないほど薄汚れている。

 ここに寝転んだら、せっかくの下ろしたてのスカートやTシャツが埃まみれになるであろうことは容易に想像できた。

 だから私はこの場所で自主休講の暇つぶしをすることや、まして昼食を食べることなど避けてきたのだ。

――耐えられない。

 私は靴を脱ぐのももどかしく、部室の床に倒れ込んだ。夏休みに入っているからなのか、幸いなことに、部員は誰もいないようだ。そのままじっとしていると、壊れたままの小さな冷蔵庫から、生ゴミのような匂いが漂ってくる。

 余計に気持ち悪い。

 私はやっとのことで床を這い、窓を開けた。湿気を含んだ生温い風が腐敗臭を緩和させていく。

――寒い。

 換気をしたはいいものの、真夏だというのに寒気がする。小康状態を保っていた腹痛も、まるでお腹の中で和太鼓が叩かれているかのように暴れ出した。

 薄れゆく意識の中で、私はそういえば今年は盆踊りも花火大会も行かなかったし、浴衣すら着なかったなあと妙に冷静にこの夏を振り返っていた。

 誰もが浮かれる夏。定期試験も終わり、みなそれぞれに長い大学の夏休みを謳歌していることだろう。

 それに比べて私はどうだ。誰もいない部室に一人きり、お腹に和太鼓を抱えて汚い床に転がっている。

 なぜ私だけが、暑いのか寒いのかも把握できないまま一人きりでいるのだろう。

 私は目尻に少しだけ溜まった涙を拭って目を閉じた。

***

「あれ、どうしたの?」

 少しだけ眠れていたらしい。耳に飛び込んで来た気の抜けた声に、私は目をつぶったまま答えた。

「……タロさん?なんで?」
「なんでもなにも、俺夕方からゼミ合宿だから」

 薄目を開けると、タロさん――正確には健太郎先輩――はずかずかと部室に入り込んで、「置き教科書」の類をバッグにつめていくのが見えた。

「まり坊、そんなとこで寝てたらトドになるぞ」
「先輩うるさい……体調、悪くて。たいしたことないんだけど」
「ふぅん」

先輩は私のことなど気にもとめない風に荷物を作り上げていく。私はその雑音が妙に心地よくてまた目を閉じた。

「……お腹冷やすなよ。どうせ生理痛だろ」

 綿の肌触りのいいシャツが私の上半身にぱさりとかけられて、私はまた薄目を開けた。

「そんな短いスカート履いてバカじゃねぇの?」
「……先輩、私寝たいんだけど」
「夕方から雨降るぞ」
「えっ!?」
「早く帰れ馬鹿まり」
「うるさい、単位落とせバカタロ!」

 私は目をぎゅっとつぶって寝返りをうち、先輩に背を向けた。ふぅと息を吐くと、先程まで乱れ打ちしていたお腹の和太鼓が、だんだん小さな音色へと変化しているようだった。先輩のシャツのおかげか、悪口の応酬のせいかはかわからない。

 生温い風は、今は心地よく、私を眠りに誘う。

「馬鹿まりはなんで学校に来たんだ?」
「うんと……練習、しないと……。私まだ下手くそだから」
「……馬鹿まり」
「なによ!」

 馬鹿、馬鹿と言われていい気がするはずがない。私は体を起こして先輩を見た。まだ視界は定まらないけれど、先輩はいつのまにか私のすぐそばで立ち膝をして、困ったような、怒っているような顔をしている。

「……お前が初心者で入部したことなんざみんな承知の上なんだよ」
「だから! もっと上手く……」

 先輩は私のおでこを軽く指で弾いて、それからため息をついた。

「……まり坊」

 先輩の手の平が私の顎にかかる。定まらなかった視界が急に開けて、すぐそばに先輩の顔があった。眉を寄せてやはり怒っているように見える。でも頬はほのかに赤らんでいるような気がするのは、まだ視線が不安定だからなのだろうか。

 じっと見つめ返していると、先輩は私の顔から手を離して勢いよく立ち上がり、その重たそうなかばんを持ち上げた。

「……まり坊、あさって部室来るか?」
「ん? 多分また練習にくるよ」
「ゼミ合宿、終わったら教えてやる」
「あ……ありがとうございます! いいんですか?」
「……また一人で倒れられたら先輩として困る」
「先輩として?」

 なにげなくおうむ返しをすると、先輩はどんどんと音を立てて部室を縦断し、慌てたように靴を履いた。

「……まり坊!」
「はい?」
「……なんでもない」

先輩は私を一瞥すると、部室のドアを閉めた。先輩のシャツを肩までかぶって再び横になると、ほのかにタバコの匂いがする。

 なんだかとても満ち足りた気持ちになって寝返りを打つと、生温い風が、まるで雲のベッドになったかのように私を包んでいるような気がした。

2010年8月脱稿/2010/10up

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