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SHINE

 誰もいない校舎は静まり返っていて、先生のタバコをふかす息づかいがより大きく聞こえてくる。先生と出会えた場所。早く「生徒」としてではなく「一人の女性」として見て欲しかったけれど、いざ卒業するとなると「思い出」に変わってしまうのが寂しい気もする。

「床、冷たくないか」

 先生の横で足を伸ばして座っていると、先生がタバコの火を消して私の髪に手を伸ばしてきた。

「うん、さすがに冷えてきた」

 足を抱え込むようにして座りなおし先生を覗き見ると、先生はぐいっと顔を近づけて、それから音を鳴らしてキスをした。

「送ってく」
「あ、私、千草ちゃんとこにバッグとか置きっぱなんだ」
「じゃ、千草んとこまで」

 立ち上がり大きく伸びをした先生は、差し出した私の手を強く握って私を引っ張り上げた。立ち上がったときに感じる強いタバコの香りや、手のひらから伝わるぬくもりはとても心地いい。ずっと触れていたくて先生に抱きつくと、先生は軽く抱きしめ返してから、私の頭をぽんぽんと叩いて私の両肩をゆっくりと起こした。

「忘れ物のないように」

 背をかがめて私の顔を見て、先生はとても優しい顔で笑った。これからは「生徒」に向けた笑顔ではなくて「私」に向けた笑顔をくれるんだ。「とっくにもう生徒じゃなかった」と先生は言ったけど、これからは本当に――。

「あ、せんせー」

 ポケットの中をまさぐっている先生に、私はふとした疑問をぶつけたくなった。ずっとこんな日が来ることを願い思っていたけれど、いざ口に出そうとするとなんだか照れくさくてこそばゆい。

「私、これから先生のことなんで呼んだら良いのかなぁ」

 先生はポケットから車の鍵を取り出して私の手のひらに自分の手を握りこませると「うーん」と唸って私の手を引いて歩き出した。廊下は教室よりもずっと冷えていて、思わず身震いをすると、先生は握った手を離して私の肩を抱いた。背中に手を回すと、ぬくもりがいっそう強く伝わってくる。私は先生の背をぎゅっと握って見上げた。

「……伊藤……さん?」
「随分と他人行儀だな」

 先生はふっと笑って私の頭を小突いた。

「せんせー、下の名前って"貢作さん"だよね」
「そう、貢作」
「じゃあ……コウサクさん」
「じゃあってお前テキトーだな」
「あ、でも」

 "貢作さん"と口に出したとき、私の脳裏を美咲さんの姿が掠めた。もう気にも留めていなかった人ではあるけれど、先生の過去の彼女も呼んでいただろうけれど……。頭の中で"貢作さん"を思い浮かべる時、どうしても美咲さんの姿がちらついてしまう。

 張り合ったって、比べたってキリがないけれど、気になってしまうものはどうしたって変えられないのだ。もう少し大人になれたら良いのになぁと思う。先生には過去があって、その過去があるからこそ今こうして私と一緒にいてくれるのだから。

「でも?」

 スリッパを鳴らしながら、先生は私を促すように肩を抱きなおした。

「……せんせー、学生時代なんて呼ばれてたの?」
「イトウとか、コーサクとかかな」
「……呼び捨ては……ハードル高いです」
「別に俺は良いけど」
「せんせー、あだなないの?あだな」
「姉ちゃんとか親は"貢ちゃん"だな、未だに」
「……せんせー、もっとハードル高いです」

 "貢ちゃん"と心の中で呟いてみる。あんなに遠かった先生が隣にいて、眉を寄せて悩んでいる私を見て笑っている。いつもと変わらない笑顔の先生を見つめて、やっぱり私は先生が好きだなぁと改めて思った。洗いっぱなしであろう髪の毛も、めがねの形も、その奥の優しい瞳も。私を思ってくれる先生が愛しい。

「やっぱり"先生"じゃだめかなぁ」
「いいぞー」
「せんせー、テキトーに答えてるでしょ」

 ぐいっと背広を引き下げて抗議すると、先生は前を見てつぶやくように言った。

「島田はもう生徒じゃないからなぁ」
「あ、先生だって今"島田"って呼んだ」
「俺はいいんだ」
「ふぅん……」

 階段を下りて玄関へと向かうと、隙間風がひゅうひゅうと音を立てていて、寒さがいっそう強く感じられる。

「島田……島田響か。島田こそなんて呼ばれてたんだ?」
「うーんと、島田とか響とか」
「同じじゃねぇか」

 先生は白い息を吐いて笑い、スリッパをざくざくと箱に投げ入れて靴を履いた。

「うーん」
「まだ悩んでるのか」
「しっくりこなくて」
「とりあえず靴履け」
「はーい」

 玄関に腰掛けて靴を履きながら、私はまだ考え込んでいた。これから先、デートした先々で「先生」と呼べば、傍目には今までと何も変わらずに、「生徒と先生」と捉えられるだろう。こそこそしなくても良くなったのにもかかわらず、悪いことをしているような気持ちになってしまうかもしれない。あるいは、そう捉えられてしまうかもしれない。

「まだ考えてるの?」

 顔を上げると、先生は玄関のドアにもたれて私を見ていた。戸の外の明かりに照らされて、笑っているのがわかる。立ち上がってつま先をとんとんと鳴らし、私は先生に手を伸ばした。

「せんせーが私のこと、なんで呼んでくれるか教えてくれてから決める」

 腕に手を添えて見上げると、先生は一度開けた戸を閉め、私の頬に手をかけて耳元でささやいた。

「響、好きだよ」

 そのまま頬にキスを落として、先生は戸を開けた。光に照らされた粉雪が風に舞って、先を行く先生を見えなくする。私は頬を押さえて、幻想的にも見える先生の後姿をぼうっと見ていた。

「響」

 車へと駆け寄りながら、私は「まだ"先生"でいいかな」と一人ごちて笑った。

2010年4月20日

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