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舞い降りた

「教師は聖職」とはよく言ったもので、生徒が一番身近に接する大人として手本になるように、俺もそれなりの覚悟をもって教壇に立っている。それとこれとは話が別で、俺は今無性に眠い。

 心地よい風の通る木陰のベンチに横になり、ホームルームまでのつかの間、睡眠をむさぼることにした。メガネをはずして寝そべると、太陽の熱で温められたベンチの程よいぬくもりに、身体の力がふっと抜けていく。ざわざわと騒がしい生徒達の声をBGMに、俺は目を閉じただけ、のはずだった。

 横っ腹に衝撃を受けて上を見上げると、ショートカットの女子生徒が自分の時計を指差して慌てた様子で見下ろしていた。島田響。授業態度もよく、成績もそこそこ。休み時間にはべちゃくちゃとうるさい友達と、なにがおかしいのかよく笑っている。俺は働かない頭で腕時計を見て、落ちてきた教科書を拾って教室へと急いだ。

***

「好きになっていい?」と訊かれたとき、俺はデジャブでも見ているような気がした。「一番身近な他人の大人」として、そして教師として、美咲に言うべきだった言葉を、眠りからさめたばかりの働かない頭の中で繰り返すように発した。教師に好意を寄せるなんてことは一過性のもので、それは漂う波がいつかさらっていくから。それを美咲の時に改めて知って苦しんだのは紛れもない俺だから。俺はタバコに火をつけて、当直室の関矢さんに電話をかけた。

***

 それから島田はちょろちょろと俺の周りをうろつくようになった。ただ好きだという。諭しても、やはり好きだという。俺の知らない美咲の新しい彼氏のことも知っているのにはさすがに頭が追いつかないが、きっとどこかで卒業アルバムでも見て知ったのだろう。一教師として、嫌われるよりは好いてくれるほうがありがたいし授業もやりやすい。ただ本気になったときに気持ちが離れていくのは女のほうで、そもそも教師が生徒の「軽い好意」に本気になるほうがどうかしているのだ。それを美咲の時に嫌というほど知ったから。

 何度突き放しても、ただ好きだとにこにこと笑い、そして泣く。「95点以上取る」と約束させて手を握り返した時、俺は「特別」だといいながら、自分にとっての特別なのか島田にとってのものなのかわからなくなっていた。俺は島田がわからなかった。

 自分の誕生日など気にする年でもないのに、生徒や同僚は気を遣ってか職員室の机の上はうずたかく積まれたテスト用紙とカラフルな紙袋で埋め尽くされていた。紙袋を避けて採点を続けていると、ちょうど島田の答案用紙に当たった。97点。なんてことはない約束でも「よく頑張ったな」と思うくらいでそれ以上のことは思わなかった。コンビニで島田の友達――千草と川合に会うまでは。

 自分でもどうかしてると思うほどに俺は焦っていた。誰かを待たせているという焦燥感からか、その誰かが「島田」だからなのか。家のドアを開けて島田の笑顔を見たとき、初めて島田を「一途なやつ」だと思った。もう泣かせたくなくて、顔を見たくなくて島田を抱きしめた。ただそれは自分の中に湧き上がったほんの一瞬の気持ちで、それを世間では「魔が差した」というのだろう。島田を家まで送るうち、俺は自分に言い聞かせた。あの行為は間違いで、わき上がった愛しいと思う気持ちも嘘だと。

 それを話したところで嫌われてもいいと思った。ただの「生徒」に「あれは間違いで、ほんの弾みで抱きしめただけだ」と告げるのになんのためらいもない。どうせ嫌われてなんぼの職業だ。俺は「教師」として「生徒」を正しい方向に導くだけだと、そう自分に言い聞かせながら、つい最近見かけた島田と男子生徒のことまでも口を滑らせた。お前たちの「軽い好意」に惑わされるのはもうごめんだと。泣きわめいて去る島田の後姿を見ながら、俺は今更ながら、島田と対等に張り合っていることに気がついた。中島さんに言われるまでもない。俺は島田がこわかった。

***

 わけのわからない衣装を着させられ、俺はまた屋上で本を読んでいた。ここは静かで居心地がいい。風に吹かれていると、ウェディングドレスのような真白な布をまとった島田がいつものようににこにことしながら近づいてきた。

 島田に俺のことを嫌うように仕向けたのは俺だ。あれだけきつい言葉をぶつけても、どうやら島田は「一途なやつ」に変わらないらしく、なんの効力も持たなかったらしい。頭をたれて「ずっと愛することを誓います」と言う島田を見つめながら、島田のためだと思い放った厳しい言葉は、自分が傷つかないための保身からくるものだと今更ながら悟った。島田の気持ちはとっくに信用していたのに、怯えていたのは俺だ。

 有り合わせで作られたに違いない、手触りの悪いベールを捲り上げて、唇をあわせた。衝動的ではあるが、これはあの時とは違う。島田の唇はとても気持ちが良くて、うっとりと風に吹かれていた。いつか島田が言った「自分が誰を好きかくらいちゃんとわかってる」という言葉が頭をよぎる。本当に分かっていなかったのは、俺のほうだ。俺は島田をいつからか「生徒」ではなく「一人の人間」として対等に見ていた。それなのにも係わらず「教師」という足かせを外そうとしなかったのは、自分の臆病な心からくるものだ。唇を離して屋上を後にしたとき、ようやく島田の気持ちを理解できる気がした。「ただ好きだ」と。島田の笑顔を思い浮かべながら、心がほんのりと温かくなった。

2010年4月21日

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