dependence. > 先生! > 不安定な安定 【後篇/R15閲覧注意】
タオルと着替えの上に携帯を置いて、私は浴室の戸を押した。シャワーを頭から浴びながら今日の先生とのことを振り返っていると、またふわふわした心地になってくる。
「プロポーズ、なのかなぁ……」
"一緒に住もう"というのがプロポーズならば、私はまた素直に頷けなかったことになる。先生のプロポーズはいつも唐突で、フルスピードで私にぶつかってくるから、私はただ突っ立ってしまうのだ。
「うーん」
大手を振って出歩けるようになってから日も浅いというのに、私は先生の歩幅には追いつかなくて、腕にしがみついて引きずられるのが精一杯だ。ちょうど、先生がナンパ男から私を助け出してくれたように。
シャンプーを手にとって髪の毛に塗りたくり、泡をもこもこと立てて汚れを洗い流す。大雑把に髪の毛の水分を飛ばしてコンディショナーをつけて、私はボディスポンジを手に取り、曇る鏡を見た。湯気に混じって私の貧弱な身体がぼうっと浮かび上がっている。
今更隠すことでもないけれど、あの夜は何か熱に浮かされたようで記憶がおぼろげだ。先生に全て見られたのかと思うと、羞恥が私を襲う。ボディタオルでゴシゴシと身体を洗い、こみ上げる気恥ずかしさをごまかした。
「先生に電話しよう……」
頭からシャワーをかぶって、髪と身体を洗い流し、湯船に浸かると、戸の外で電子音が鳴り響いた。
「あ、電話だ!」
水圧で重たい身体を勢いをつけて立ち上がり戸を開けると、もう着信メロディは止まっていて、着信履歴には「伊藤貢作」という文字が出ている。水蒸気で視界が白くなった脱衣場で急いでパジャマに着替えると、私は二階に急いだ。
***
「先生?」
『おう』
ベッドの上で膝を抱えて、私は先ほどまで隣で聞いていた先生の低くて優しい声に聞き惚れていた。身体を熱いものがこみ上げて、顔が赤くなるのがわかる。お風呂に入っていたせいか、先生の声を聞いたせいかわからないけど、身体が熱い。先生の声はいつ聞いても私の心を満たしてくれる。
「電話くれた?ごめんね、お風呂だった」
『あーそりゃ申し訳ない』
「いえいえ」
『いや』
「なにかあったんですかー?」
『いや、なんてことはないんだけどよ』
「そうなんだ」
笑うと、受話器の奥でタバコの煙を吐き出すような吐息が聞こえた。
「先生、タバコ吸ってる?」
『おう』
「タバコっておいしい?」
『うまくねぇよこんなの』
「何で吸ってるの?」
『なんでかなぁ』
「先生いつから吸ってたの?」
『大学からかな、忘れた』
確かに大学の小さな喫煙室を通りすがり様に見たとき、ドアについた小さい小窓の向こうは白くもやがかかっているようで、目を凝らすと沢山の人がぎゅうぎゅうになりながら煙を吐き出していた気がする。
「短大でもいるよ、吸ってる人」
『おー、だろうな』
「みんな大変なんだねぇ」
『お前も大変だろう、なにかと』
「授業が長くて眠くなるよ」
『そんなもんだ』
先生はまたため息のような吐息を漏らし、小さく喉を鳴らした。
「先生?」
『いや……明日ヒマか?』
「うん、ヒマだよ」
『じゃあうちにおいで』
「うん! じゃあそろそろ寝るね」
『おう』
電話を切ると、生乾きの髪が頬に張り付き私を寒くしたので、私はあわててドライヤーを手にとって髪に熱風を吹きつけた。
***
先生の家へ行く道すがら、道端を観察していると、道路と歩道の間に植えられた木に、小さく芽吹いているものが認められた。
「春だなぁ」
ついこないだまで雪が降っていたというのに、私は雪の卒業式を経て短大に入学し、春を迎えようとしている。背伸びをしてじっくり観察していると、小さな虫がうねうねと木を這っていて、私は思わず大きな声を出した。
「なにやってんだ」
振り返ると浩介がコンビニの袋を持って、呆れ顔で立っていた。
「なんだ、浩介か」
「なんだとはなんだよ」
「勉強頑張ってる?」
「うるせーよ」
「どこ行くの?」
「……別に」
「あー、中島んちでしょ?」
指をさして言うと、浩介は私の指を折って隣を追い越していった。
「あー、ちょっと待ってよ! 私も先生にコーヒーのお土産買うから!」
浩介の腕をとって、私はそばにあるコンビニに向かった。
「別に一緒に行かなくてもいいべや!」
「まぁそれはそうなんだけど、折角会ったし」
「なんだよそれー」
ぶつぶつ言いながらも浩介はコンビニの外で「ここで待ってるから」と足首を回した。いそいでコンビニの外に出ると、暖かい風が吹き込んできて、私は深呼吸をした。
「春だねぇ」
「そうだな! お前にとってはただの春かもしれないけど俺にとっては試練の春だな!」
「そうだね、がんばれコースケ」
「……むかつくなおい」
わざと棒読みで声援を送ると、浩介はむっとした顔で歩幅を早めてズンズンと先に向かった。
***
「じゃーね」
先生の家の前で浩介のほうを向きながら、私は前に先生が言っていた「深夜」のことを思い出していた。
「おー、じゃーなー」
「そういえば浩介」
「なに?」
「先生が言ってたんだけど、深夜に隣がうるさいから困るって」
「ああ!? うるせーよ! 早く入れ! どーせまた鍵開いてんだろう!」
浩介は真っ赤な顔をして怒鳴ると、私を先生の家に押し込んだ。くわえタバコで目をまん丸にして立ち尽くす先生と目が合い、私はドアを背に苦笑いをした。
「おう」
「えへへ……今浩介と来たの」
「そう」
「……こんにちは」
「どうぞ」
先生はタバコを灰皿にこすり付けて火を消すと、私を手で促した。
***
「浩介、中島と仲いいみたいだよ」
テーブルの上に缶コーヒーを置いて笑うと、先生もふっと笑って私の頭をぽんぽんと撫でた。
「それはよかった」
「先生なんか適当ー」
「うん」
床に座ろうとすると、先生は私の前で少しかがんでから、膝の下に腕を入れ、背を支えて私を持ち上げた。
「うわっ」
目をつぶり首にしがみついていると、やがて背中が沈みこむような感触がある。そっと目を開けるとやはりベッドに下ろされていて、すぐ近くには先生の顔があった。
「せ、先生!?」
先生は少し真剣な顔をして私に覆いかぶさると、眼鏡をゆっくりと外してベッドの下に置いた。額と頬に口びるを寄せてから、私の口びるを優しく食べるようについばみ、私に声をあげる隙間を与えない。
「せんせ……」
口づけの合間にやっと抗議の声を上げても、先生には逆効果らしく、更に深く唇を割られる。何度こうされても、布越しに伝わる先生のぬくもりにまだ慣れない。ただ立って抱きしめられている時とはまた違って……ぬくもるというよりは熱くて、溶けてしまうそうだ。
「響」
「ん……」
先生の唇は私の首元を優しく撫でている。先生の吐息が近くで聞こえる。くすぐったくて身をよじっていると、もう一度名前を呼ばれた。
「ん……なに、せんせ……」
「声、あんまり出すなよ」
「えっ、出してるつもりは……」
「ほら」
先生は私の首元に顔をうずめたまま、壁を指差した。隣からくぐもった話し声が聞こえる。
「あっ……」
「ここのアパート、壁薄いんだよな」
言いながら、先生は器用にシャツのボタンを外していく。身体が急に外気にさらされて、私は思わず身震いをした。
「あっ……」
「だから……」
先生は私の頬を撫でて、味わうように唇をはむと、急に強く口びるを押し付けられ、私の口の中を舌で翻弄した。先生の舌が私の舌を探す。おずおずとひっこめていた舌を出すと、先生はそれを絡めとってまた角度を変えて私に口づけた。心臓がどくどくと耳の近くで鳴る。せり上がる息に耐えられずため息をもらしながら、私は先生の背にしがみついた。
「我慢できない?」
先生の手がシャツのすき間から背中を撫でる。くすぐったいような気持ちいいような感触に、私は先生とひとつになったかのような錯覚に囚われて、堪えていた思いを吐き出した。
「だって……先生、好き」
「うん……」
先生の全てに翻弄されながら高い声を出すと、先生はまた深く口づけて私のシャツを脱がした。
***
「あのね、先生」
ベッドに腰掛けて私の買ってきた缶コーヒーを飲んでいる先生に、私はまだベッドに寝転がりながら尋ねた。
「……せんせー、昨日のって」
「昨日の?」
「……一緒に住むっていう」
「ああ、それな」
先生は缶をテーブルに置くと、私の隣に身体を横たえた。私の髪の毛を手で梳きながら、先生はつぶやくように、自分に言い聞かせるように言った。
「焦ってるのは自分でもわかってるんだけどなー」
「うん……」
先生が天井を向いたので、私は先生の腕に頭を乗せて先生に身を寄せた。胸に耳をつけると、先生の腕に力がこもる。
「お前が順調に大学を出てもらわないと進まない話だからなぁ」
「……わかってるよ……」
唇をとがらせて先生を見ると、先生はいっそうきつく私を抱きしめた。
「ま、頑張れ」
「また適当だー」
「今のは本心だよ」
「ほんとにー?」
「月曜は?」
「心理学とー、体育とー、あと論文購読とー、情報処理とー英語です」
「ほう、頑張れ」
返事の代わりに先生にしがみつくと、先生は私の背中を優しく撫でた。
***
ドアを閉めると、浩介もちょうど出て来たところで、ドアの隙間から香水のような甘いいいにおいが漏れ、こちらまで伝わってきた。
「……よう」
「帰り?」
「いや、俺はコンビニ」
「ふぅん」
夕焼けの中を二人で歩きながら、私はふとした疑問を浩介にぶつけた。
「あのアパート、作りがイマイチだと思うんだよね」
「確かにぼろいな」
「壁…」
「壁…」
同時に出た言葉に、私は思わずから笑いをした。今日の私達の声もやっぱり聞こえていたんだろうか。なんともいえない居心地の悪さがむずがゆくなった頃、コンビニの明かりが見えた。
「そういえば、明日からあそこのコンビニでバイトするよ」
「げぇ、まじかよ……」
「マジマジ」
「……」
「変なもの買いに来ないでよね」
「変なものってなんだよ」
「別にー。じゃーね!」
私は浩介に叫ぶと、小さく走ってコンビニの横を抜けた。自分のことでも精一杯なのに、浩介が中島と……。やっぱり、生々しくて考えるのもおぞましい。
「買うなら別なところにしてよね」
つぶやきながら、私は家路を急いだ。
了
2010年5月2日