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不安定な安定【前篇】


「は、はいありがとうございます!じゃ、日曜に伺います!」

 バイト先からの電話を切り、安堵のため息をついていると、視線を感じた。見上げるとドアの隙間から妹がにやけた顔をしながら見ている。

「ご飯だよー。バイト決まったの?」
「うん」

 大きく伸びをして妹の後を行くと、階段に差し掛かったあたりでため息をつかれた。

「なに?」
「……それにしても先生とはねえ……カッコイイもんねえ」
「しつこい!絶対言わないでよ!」
「言ってない言ってない」

 妹は先生がうちに迎えに来て以来、私の顔を見るとにやけた顔を見せる。家族で集まって食事をしているときやテレビを見ているときに脈絡なく「先生がかっこいいから南高を受験しようかな」と言い放ち私を慌てさせ、その様子を楽しんでいるのだ。妹が南高に入るのには不都合はないし、受験を頑張って欲しいとも思うけれど、食事くらい落ち着いてとらせて欲しい。

 今日の夕食も、妹の受験の話が出て、私はまた針のむしろに座らされた思いだった。

***

「──ということがあって、どうやらうちの妹は南高を受験することになりそう」

 ベッドに寝転がって、電話で先生に一日を報告するのが私の日課になっていた。私も学校にまだ慣れないし、先生も新学期なのでなかなか会うことがかなわない。

『いいんじゃねーの?』
「いいんだけど、なんだかいたたまれなくて」

 ため息を吐くと、先生は少し大きな声を上げた。

『あー、挨拶な』
「あっ、忘れてた」
『都合、聞いておいて』
「はーい」
『そういえば昨日中島さんちに川合が来てたな』
「そうなんだ」

 浩介はまた代ゼミに通って東大を目指すといっていた。東大だなんて、私には勿論選択肢にも上がらない大学だけれど、部活もせずに勉強だけに打ち込めば、浩介ならかなう夢かもしれない。

『あいつらなぁ……夜中だったからうるさかった』

 "夜中"ということは、つまり……。

「あはは、あははは……」

 浩介も中島のことを好きで、中島も浩介を好きなんだからそういうことになるのは当然なのだろうけど、生々しすぎて想像をするのもむずがゆい。

『……俺らも気をつけないとな』

 先生がしみじみとつぶやくから、ゴロゴロと寝返りを打って、むくむくもたげる妄想を必死に追い払った。

「あははは、あはははは……」

 乾いた笑いでお茶を濁していると、先生はため息かタバコの煙を吐き出したからか、ほうっと息をついた。

「そういえば日曜からバイトです!」
『そうか、頑張れよ』
「はい!」

 電話を切り、電気を消して布団に入ると、中島と浩介の顔、そして先生の顔が交互に浮かんできて、私はタオルケットを引っ張り上げて布団の中にもぐりこんだ。

***

 私の通っている短大は、四年制大学の施設内にあることもあり、学食はいつも混んでいる。二人分の席を確保して千草ちゃんを待っていると、携帯が鳴った。

「先生!?」

 表示された名前に慌てて電話をとると、ちょうど千草ちゃんがトレイに定食を乗せて帰ってきたところだった。

「伊藤から?」
「うん! ……もしもし!?」
『おう』
「先生、どうしたの?」
『今日ヒマか?』
「うん、授業終わった後は何もないけど……」
『中島さんが"いらないから"ってチケットくれたんだけど』
「何のチケット?」
『今日の野球のチケットなんだけど、行く?』
「行く!」

 思わず立ち上がって叫ぶと、隣で食べていた千草ちゃんが驚いて箸を落とした。

「響ってば、ちょっと注目浴びちゃって……あはは、なんでもないんですぅ」

 振り返ると、何人もの学生がちらちらとこちらを見ている。私はあわてて箸を拾い、手で千草ちゃんに謝ってこそこそと新しい箸を取りに向かった。

『車ちょうど車検で手元にないからよ、地下鉄で行こう』
「地下鉄で……うん、わかった」

 先生の車に乗ったことは何度もあるし、二人で出かけたことも何度かあるけれど、地下鉄で出かけるのは初めてのことだ。高校のときは人目につくから考えたこともなかったけれど、こうして普通にデートができると思うと、急に緊張がこみあげてくる。気がつくと目の前には箸やスプーンが大量に置かれたコーナーへとたどり着いていた。先生の言葉に相槌を打ちながら適当に掴んで千草ちゃんの元へ戻ると、千草ちゃんは「三本あるよー」と笑って再び食べ始めた。

『じゃあ、大通で待ち合わせて行こう』
「うん!」
『じゃあ、5時くらいにするか』
「うん!」

 胸の鼓動を抑えて電話を切ると、千草ちゃんは箸を置いて伸びをした。

「デート?」
「うん」
「いいなぁ」

 千草ちゃんは頬杖をついて唇をとがらせた。

「千草ちゃんは?」
「今日は渚は部活だよー」
「そっかぁ」

 再び美味しそうに食べはじめたのをじっと見ていると、千草ちゃんは不思議そうな顔をして私を見た。

「響、にやけすぎ」
「えっ、にやけてる!?」

 顔を押さえると、千草ちゃんは私の頭を撫でた。

「ラブラブなのねぇ」
「えへへ」
「でもご飯食べないと昼休み終わっちゃうよ」
「忘れてた!」

 あわててトレイを掴んで適当に注文をし、席に戻り急いで食べ始めると、千草ちゃんは既に食べ終わっていて、携帯で休講情報をチェックしていた。

「響、三講目休講だって!」
「ホント!? じゃあ今日はもう何もないね」
「ゆっくり食べて、でさっきの話聞かせてよー!」

 千草ちゃんは目を爛々と輝かせながら私の両肩をしっかりと掴んで揺さぶった。

***

 金曜の地下鉄は、帰宅する人や遊びに行く人、呑みに行く人でごった返していた。大通駅で下車をして人の波に押されながら改札を出ると、待ち合わせ場所にも沢山の人がいて、携帯を片手に手持ち無沙汰にしている。

「まだ四時過ぎだ……。早かったなぁ」

 私はかろうじて空いているスペースに背をつけて、改札口から流れるように出てくる人々をじっと見ていた。

「待ち合わせですか?」

 ふいに言葉を掛けられて声のするほうに顔を向けると、いつのまにか黒いスーツを着た茶色い髪の男の人が至近距離にいて、私は思わず身を引いた。

「そうですけど……」

 うつむいて答えると、男の人はやけに馴れ馴れしく話しかけてきた。

「そうなんだ!飲みに行くの?」
「……いいえ、違いますけど」
「えー、お酒飲みそうだけどなぁ」

 そう言うとその男の人は更に私に近づいてきた。きつい香水の匂いにまじってタバコの匂いがする。

「飲まないです」
「ずっと待ってるけど、友達来ないね」
「いや、時間早く着いちゃっただけだしそれに……」

 "友達じゃない"と言おうとして顔を上げた時、スーツにスプリングコートをひっかけた先生が大またで歩いてきて、私の手を強く引いて歩き出した。

「うわっ」
「なにやってんだ」

 しばらく私を引きずった後、先生は歩くスピードを緩めて私の手を握りなおした。

「なにって……なんだろ?」
「どうみてもナンパだろう」
「あー……」
「律儀に返事してたんだろ、どうせ」
「すみません……」

 それきり先生は黙ってしまった。顔色を伺おうとしても身長差があり思うようにいかないので、私はおとなしく手を引かれるまま歩いた。

 スタジアムへと向かう地下鉄線のホームは、これから野球の観戦に行くであろう、グッズを身につけた人やユニフォームを着た人で溢れている。ホームの片隅のベンチに一人分のスペースを見つけて、先生が私を座らせてくれた。

「あ、ありがとうございます」
「おう」

 先生は私の横に立って、壁にもたれて私に笑いかけた。いつもの優しい笑顔にほっとして、私はさっきまで絡まれていた男の人を思い出した。

「私、ちょっと早く着いちゃって」
「そうか」
「変な人だとは思ったんだけど……」

 そこまで言うと、先生は盛大にため息をついて私の髪の毛をくしゃくしゃにした。

「……物騒だから、変な人には近づかないように」
「はーい」
「ちゃんとわかってんのか」
「わかってるよ」

 髪の毛を手ぐしで直して答えると、先生はまたため息をついた。

***

 スタジアムへ入り席に着くと既に試合は始まっていて、応援団の大きな音や声援が響き渡っている。先生は腕を組みながら電光掲示板とボールの行方をじっと見ていて、授業の時よりもずっと真剣に見える。横顔に見とれているうち、場内にため息がこぼれて人がぱらぱらと立ち始めた。

「あれ?どうしたの?」
「一回の裏が終わったんだよ」
「ええっ、もう?」
「お前、なにも見てなかっただろう」
「圧倒されちゃって……」
「わかんないことがあったら訊いていいから」

 先生はそういうと、通路を行き来するドリンクの売り子を呼び止めた。

「俺はコーラ、お前は?」
「オレンジジュース!」

***

「ボールが小さくて良く見えないねぇ」
「そんなもんだ」

 先生は笑って私の頭をぽんぽんと撫でた。頭に置かれた先生の手を取って握ろうとした瞬間、視界が揺れて私は思わず先生にすがりついた。

「じっ……地震!?」
「いや、応援」

 先生の指をさす方を見ると、外野席では人々がジャンプしながら応援している。周りを見渡しても、何人もの人がその場でジャンプをしていた。

「あー、稲葉ジャンプだ!」
「そうだな」
「先生もジャンプしようよ」
「しねぇよ」

 先生の腕を取って立ち上がると、先生はされるがまま、じっとバッターボックスを見ていた。

「ジャンプしてもいい?」
「おう。じゃあとりあえず……」
「ん?」
「腕離して」
「はーい」

 見よう見まねでジャンプすると地面が揺れて、ふわふわして気持ちがいい。ずっと飛び続けていると、また球場内がため息に包まれ、揺れがすぅと引いていった。

「あれ?」
「ピッチャーゴロ」
「終わり?」
「今の打席は終わり」
「なんだぁ」

 結局私は今日、合計三回ジャンプをした。

***

 人混みを恐れて八回でスタジアムを後にした私達は、近くのファミリーレストランで遅めの夕食を食べることにした。ドリンクバーで先生の分のコーヒーと自分のカルピスソーダを手に戻ると、先生は携帯を片手に難しそうな顔をしている。

「どうしたの?」
「迷惑メールが多いんだよなぁ」
「なんだぁ」

 笑うと、先生は少しふくれたような顔をしてコーヒーに口をつけてタバコに火をつけた。いつものタバコの匂いがする。けして万人にとっていいにおいだとは思えないけれど、私には香水まじりよりはずっと心地よくて、先生に包まれているような気持ちになる。

「で、どうだった?初めての野球観戦は」
「稲葉ジャンプしかわからなかったけどー、でも楽しかったです!」
「そうかそうか」
「せんせー、飛びすぎて足が痛いです」
「自業自得ってやつだ、それは」

 プレートを私と同じような年の頃のウェイトレスが運んでくる。私は箸をつけながら、バイトのことを思い出した。

「……あ、先生、私バイト先って家の近くのコンビニだから先生にも会えるよ」
「なんでまた」
「私ね、卒業したら沢山会えると思ってたんだけど、考えてみれば先生は学校だし私も授業だし」
「家に来ればいいじゃねーか」
「……泊まりたくなるもん。千草ちゃんにいつまでも頼れないし」

 先生は水を一口飲むと、箸を置いて、少しだけ真剣な顔をした。

「ん?」
「……短大卒業したら一緒に住むか」
「えっ……」
「多分、あと二年くらいしたら転勤になると思う」
「えっ……そうなんだ」

 先生がいるからという単純な理由で地元の短大に決めたけれど、先生が学校の先生である限り、転勤はついて回るものだ。かつて関矢先生が転勤したように。

「その話はまたゆっくりな」
「うん……」

 先生と私は、そのあと他愛もない話をした。私は千草ちゃんのことや短大で新しく出来た友達のことを話し、先生は新入生がいかに手がかかるかについて力説をした。私が大笑いをすると、また先生は少しむくれた顔をして、それがとてもかわいくて愛しかった。

***

 地下鉄からの帰り道、先生は私を家まで送ってくれるといい、手を握って歩いていた。春の風が温かく吹く道を歩いているうち、私はこのまま帰りたくなくて、先生の手をぎゅっと握って立ち止まった。

「どうした?」
「先生んちに行きたい……」
「今日は遅いからダメ」
「明日土曜だよ」
「だから余計ダメ」
「……我慢してるの、私だけじゃないよね?先生も……会いたい?」

 先生は私の手を引き寄せて背中を抱くと、身をかがめ私のあごに手をかけて口づけた。息もできないほどに口を塞がれて、舌が絡めとられる。先生のコートをぎゅっと握るたびに、角度を変えて深く口づけられ、私はなされるがままになっていた。

「わかった?」
「ん……」

 耳元でささやいて、先生は再び私の手を取って歩き出した。ふわふわとしていて心地よくて、稲葉ジャンプのときもこうだった、と思っているうちにあっという間に家に着き、先生は頬にキスをして足早に帰っていった。触れられたところが熱くて、私は頬を押さえて門を押した。

2010年4月30日

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