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023 : 片道切符

 電車が甲高い悲鳴を上げながら速度を落とすと、頭から糸で釣られたように身体が斜めに持っていかれそうになり、俺は足の裏に自然と力を入れた。ホームに入り断続的に速度が落とされると、耐えられず高いヒールを履く女がよろめき、だらしなくネクタイを緩めたほろ酔いのサラリーマンの袖を掴む。俺は文庫本を閉じて鞄の中に放り込み、手探りでパスケースを手に取った。二つ折りのそれを片手で開くと、一つの窓には出来立ての学生証に貼り付けられた自分の顔がこちらを向き、もう片方にはICカード式の乗車カードが差し込まれている。電子マネーの進歩で、随分と財布が軽くなった。医学部に転向せずIT業界の更なる発展に力を注ぐのも悪くはないとも思うが、俺には一生をかけてまで取り組みたくなるほどの魅力も感じない。執着心など自分にあるものかと思っていたが、今は医学に必死にくらいついている。

 ホームから階段を下りると、改札機がエラーを知らせる機械音を発している。その合間に嘆く聞き覚えのある声がして、俺は人の波をかいくぐって背後から声の主の肩を叩いた。

「おい」
「ふぇ……。わ、入江くん!同じ電車だったんだねぇ」
「何やってんだ」
「あの、あのね、か、改札機が通れなくってぇ」
「……お前、いいからちょっとどけ」
「わ、あ、皆さん、ご、ごめんなさい」

 飛んできた職員に目で一礼すると、うっとうしそうな顔をした人の波をかき分けて、よろめく琴子の腕を掴んで精算機横の柱まで引きずり出した。腕はしっとりと汗を帯びていて、手のひらから柔らかさが伝わる。そのまま支えるように腕を掴んでいると、琴子はもたもたと財布とパスケースを鞄にしまい、俺を見上げて騒動で火照った顔をほころばせた。

「た、助かった……。ありがと、入江くん」
「笑ってんじゃねーよ。お前、最近いつチャージしたんだよ」
「え」
「ただの残高不足。……お前表示見てねえのかよ。ったく面倒かけさせて」
「やだ、そうなんだ。あたしったら、あはは」

 琴子は足首を回して斜めに柱にもたれ、大きくため息をついてまた笑った。

「……チャージなり精算なり、早くしたら」
「……あのね」
「なんだよ」
「……ゲームセンターでちょっとお金使いすぎちゃって、今一文無しなの」
「はぁ!?」
「ちょっとだけ、お金貸し」
「嫌だ」
「お、お願い!一生のお願い!」
「……お前の一生は随分と軽いんだな」

 片手で鞄から財布を探り、琴子の手に握りこませると、琴子はまた俺を見て笑った。

「あ、ありがと」
「……早くしろよ」
「……あの」
「今度は何」
「入江くん、腕……」

 俺につかまれたままの琴子の腕が、俺の手の形どおりに赤く擦れている。もう一度強く掴んで手を離すと、一抹の寂しさが俺を襲った。手のひらは琴子の汗と俺の汗でしっとりと湿っている。琴子に触れるたびに感じる、柔らかく心地よいものを失うことへの恐怖心はどこからくるのだろう。

「ありがと、入江くん」

 琴子は俺を見て笑い、財布を俺に差し出した。俺は琴子の指先に触れないように財布を乱暴にひったくると、改札機に向かった。今日はもう二度と触れたくないのに、琴子は急ぐ俺の腕を軽く掴んでくる。温かくて気持ちがいい。俺は腕を振り解くことが、とうとうできなかった。

 

2009年9月1日

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