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026 : さよなら夏の日


  この幼稚園にはバカしかいない。クレヨンが折れただと?自分でセロテープで補強しろよ。砂遊びに入れてもらえないなら別の遊びをしろよ。
 でも先生は、そんな馬鹿が泣いたり駄々をこねても、無視せずそいつらに構う。馬鹿ばっかりのこの幼稚園で理不尽な要求に耐えて働く先生が一番不憫だ。それはともかく……
「……あつい」
 ロボットの絵を描くのに、汗で滑ってクレヨンがつかめない。
「どうしたの?」
 先程まで馬鹿園児に翻弄されていた先生が、いつの間にか俺の横に座っていた。俺が女をやめてからずっと、この先生は俺にちょっかいを出す。
「……別に」
「あらあ、直樹くん、すごい汗かいてるわよ!手も汗でベトベト……。手、洗いにいこうか」
「いいよ」
「……ふぅん。じゃ先生直樹くんが描き終わるまでここでみてよーっと!」
「……」
「いい?」
「……別に」
 先生は大袈裟に喜んだ後、俺を抱え上げて膝に乗せた。
「なにすんだよ!」
「直樹くん、男前だねえ」
「降ろせよ!」
 手足をばたつかせて、体をねじって膝から下りようとした俺は、勢いで、つい顔を先生の胸にこすりつけてしまった。洗濯したばかりのタオルのような、おひさまの匂いがした。
「……ご、ごめんなさい」
「いいのよ、でも直樹くんいつもひとりだから、先生いつも心配なの。謝らなくていいから、明日はお外で元気に遊ぼうね!お砂遊びしたことある?」
 女の時は楽しかった。俺のために、男どもが大きな城を作ってくれて、おれは有頂天だった。今は、子供っぽいから嫌だ。
「……ない」
「じゃ、明日ね!指切りしよう!」
 強引に絡められた先生の小指は長くて柔らかくて、俺の小指がやっとかかるくらいの差があった。
 その時初めて顔を上げた。先生は目を糸のように細くしながら、嬉しそうに笑っていた。
 俺は早く大人になりたいと思った。


 琴美を迎えに幼稚園に着くと、何人かのママと御婦人が楽しげに井戸端会議をしている。会釈をして、その輪に話し掛けた。
「こんにちは、入江ですが」
「あら、ま、もしかして、直樹くんなの?」
 御婦人が、眼鏡をかけて俺をまじまじと見つめた。
「……ええ、私は入江直樹ですが娘の琴美を……」
「ふふ……、砂遊び、結局してくれなかったわね」
「……もしかして」
「やっぱり男前になったわね!私には先見のめいがあるわね」

 相変わらずの細い目をしてにこやかに笑う、かつての先生は、事情のわからず突っ立つ俺の隣で昔話を始めた。
「私はあの時、本当の先生じゃなかったの」
「実習生だったんですか」
「そんなところね。私が来る直前に、ナオちゃんが直樹くんになった……この話嫌?」
「いいえ」
「わけがわからなかったわ、直樹くんは一人でひたすら絵を描くか本を読むばかりで、何が起きたのかを先生に聞けるような立場じゃなかったんだもの」
 そう言うと、先生は遠い目をして校舎を眺めた。
「……申し訳ありま」
「謝らなくていいのよ、こうやって立派な大人になって、それだけで嬉しいのに。奥さんは?」
「……今日仕事で、俺が代わりに」
「まあまあまあ、素敵な旦那様だこと!」
 手を組むと、先生はうっとりしたように目をつぶった。
「……先生は」
「ん?」
「先生はここで教えてらっしゃるんですか」
「そうなるのかしら。あのあとここで採用してもらって、園長先生と結婚して退職したんだけどね、年に何度か、ちびっこと遊びたくて来てるのよ」
「なるほど」
「……琴美ちゃんね、今日お砂遊びなんかしたくないって、ふふ、子供っぽいから嫌だ、って大騒動になったのよ」
 全身の力がすうと抜けていく。
「……俺の子ですね」
「教室の隅で、暴れ疲れて寝てるはずよ」
「……とんだご迷惑を」
「いいのよ!でも帰りに、二人でお砂遊びしてみたらどうかしら」
 先生はまた目を細くして悪戯っ子のように笑った。
「……そうですね」

 琴美のために、大きな城を作ってやろう。トンネルも掘って、川を作り水を流そう。

 俺のつまらない夏の日が、今日終わる。

 

2009年7月28日

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