dependence.>text>お題でイタキス >093 : 天才と凡人
「入江さんって、本当に天才なの?」
モトちゃんが妙に神妙な顔をして訊いてくるから、あたしは一瞬言葉を失った。今更なにを言い出すのだろう。
「そりゃあ、天才に決まってるじゃない」
入江くんを褒められると、なぜか自分も誇らしく思える。自分が出来損ないの分、余計に旦那さまのデキる男っぷりには肩入れしてしまうのだ。
「……昨日、入江さん変じゃなかった?」
「え? 別に、普通だったけど」
「ふぅん、感情のコントロールが天才ってわけか」
「入江くんは頭脳も身体能力もなにもかも天才よっ」
「昨日、見ちゃったのよ」
モトちゃんは大きくため息をついて顎に手をやった。
「入江さん、ミスしちゃったらしくて……、まぁ事務関係との連携が上手くいってなかったっていうアレで、入院予定の患者さんのベッドに空きがなかったんですって。遠方の患者さんだったらしくて、患者さん相当キテたわね。怒鳴り声がもうすごくて」
「そんなの、事務の人が悪いんじゃ」
「ま、なんとかなったんだけどね。伝わってなかったんだから、入江さんのミスでしょ。それに、患者さんの前に事務方を連れてくるわけにもいかないし」
「……珍しい」
看護師になりたての頃は家で仕事の話をすることがあったけれど、あたしのドジやヘマ、相談が占めていて、入江くんが愚痴ることなど殆どなかったし、ここ最近はあたしも相談をしなくなった。職場と家を切り離すのが、この頃の暗黙のルールだったのだ。
「……知らなかった」
「あ、噂をすれば……。じゃあね」
モトちゃんの視線の先を振り向くと、いつもと同じ顔をした入江くんがいた。
「いっ、入江くん」
「なにサボってんだよ」
「なっ……サボってない! 情報交換!」
「あ、そう」
入江くんはあたしの頭をこつんと叩いて売店に歩いていく。肩を並べ横目で見ても、やはり変わった様子はない。
「なんだよ、仕事しろよ」
「あたしも喉渇いたかなぁって」
「勤務中だろ」
「もう、かたいこと言わない。あっ、夏ごろ、コンビニが出来るんだって! 便利になるね」
「情報遅すぎるな。そんなことくっちゃべってたのか」
このこじんまりとした売店も、夏にはなくなるらしい。そこそこ大きいこの病院には売り物の種類も内容も、少し前時代的。病院にカフェやコンビニが併設されるのが当たり前になってきた世の中で、ようやく院長も重い腰を上げたらしい。
「入江くんはコーヒー? あたしはミルミルにしようっと」
「おごらねぇぞ」
「今日はあたしのおごり」
「はぁ?」
こんなことで入江くんの気分転換になるかはわからないけど、いつも頼ってばかりだった分、少しでも力になりたい。落ち込んでいるときは言って欲しいけど、弱音を吐くような入江くんではないし、探るのも得意ではないからせめて自分にできることはしたいのだ。自己満足だけど、あたしは同僚でもあり、奥さんでもあるのだから。
売店横の廊下で壁にもたれながら入江くんと二人きりでいると、勤務中ということを忘れてしまいそうだ。天候が悪いからか行き交う人もまばらで、病院内はゆったりと時間が流れている。
「……なにたくらんでるんだよ」
入江くんが納得いかない風の顔でコーヒーに口をつけた。
「えっ、なによそれ! あたしだって、たまにはおごったりもするのよっ」
「欲しいものは自分で買えよ」
「わかってるってばっ」
入江くんはふっと笑ってあたしの膨れたほっぺたをつまんだ。本来なら知らないであろうことを慰めるのは難しい。自分だったら触れて欲しくないと思うし、隠しておきたいと思う。あたしは少し考えて、自分のありあまる失敗談を話すことを思いついた。
「あ、あのね、あたしの担当してる患者さんが夜中に点滴引っこ抜いちゃって」
「……なにやってんだよ」
「それだけじゃないの! その患者さん、トイレ行くとき転んじゃって」
「また始末書か」
「もう、大変!」
「……いばるなよ」
「あ、あとねぇ、こないだから実習生が来てるんだけど、あたしより色々慣れてるんだよ」
「お前が慣れなさすぎなんだよ」
「あとねぇ、間違って折れてないほうの足を」
「……もういい。頭痛してきた」
「えっと……入江くんは天才だから、大丈夫よ!」
「なに言って……」
呆れ顔の入江くんの頬に背伸びしてキスすると、入江くんはあたしをエントランスから隠すように手をつき、唇を塞いできた。苦いコーヒーの味が確かめるように這う舌から伝わってくる。
「んんっ……」
「全く、お前は」
入江くんは音を立てて唇を離し、あたしを軽く抱きしめた。
「お前の天才振りには負けるよ」
白衣からかすかに煙草の匂いがする。ずっと吸っていなかったはずだ。やはり、昨日の件は相当堪えたのだろうか。
「あっ、あたし天才?」
「ドジの天才」
「ばっ、バカにしたわねっ」
「……俺は凡人だよ」
「えっ……」
ちょうど呼び出し音が鳴ったPHSを手に、入江くんはあたしに背を向けた。
「……俺は人を慰めるのは向いてないからな」
「入江くん……?」
「あ、今夜早く帰るから、風呂入ってセックスの準備しとけ」
「ちょ、ちょっと入江くん何言ってんのっ!?」
あたしの叫び声もむなしく、入江くんは角を曲がって病棟に消えて行く。あたしは残りのミルミルを音を立てて吸った。コーヒーの苦さが消えて、甘ったるい匂いだけが残った。
「んん? 入江くんは凡人なのかなぁ……?」
「……入江さん! 勤務中ですよ! どこほっつき歩いてるんですか!」
お腹に響くような怒鳴り声に恐る恐る後ろを向くと、師長がカルテを手に赤い顔をして仁王立ちしていた。
入江くん、あたしはやっぱり天才なんかじゃない。
了
2011年3月1日