あたしとお父さんがこの家にお世話になって、幾年もの時間が過ぎた。
前の家は地震で壊れてしまったから、あたしとお父さんは重機が柱や屋根を取り除いたのち、必要最低限のものを掘り起こしてこの家に転がり込んだ。
入江家はとても裕福で、その後おかあさまとなるおばさまが良くしてくれたおかげで、何不自由なく暮らせたし、入江くんという伴侶まで手に入れることが出来た。
あたしは本当にどんくさい。物を覚えることが苦手だけど、おかあさまはいつも助け舟を出してあたしを応援してくれる。
そんな環境に、あたしは甘えていたのだと思う。
頼まれておかあさまの部屋へ洗濯物を運びがてら、鏡台の、一枚のハガキと、クレジットカードのような、小さな紙が目に飛び込んできた。
「なんだろう」
他人の、まして姑の部屋で、まじまじと見渡すことは今までなかったのだけど、書いてある文字に驚いた。
紙を両手に持ち、その場に突っ立つことしかできない。
体が自分へのふがいなさでわなわなと震えた。
あたしは、本当に何も考えていなかったんだ。
嫁失格だ。
その夜はとても冷えたので、夕食後おかあさまが温かいハーブティを入れてくれた。
他愛もない会話を、作り笑いでやりすごす。
直球で尋ねるべきか、それとも入江くんに協力してもらおうか。
こそこそと実行しても、うまくいった試しがないのは分かりきっているのだけど、今回はやはり自分の力だけで成し遂げたいと思う。
それがせめてものおかあさまへの感謝に繋がる、と思う。
「どうしたの琴子ちゃん」
「あっ、なんでもないです!ちょっと考え事を…」
うまく笑えているかわからないが、取り合えず口の端を上げて、声を出してみる。
乾いた笑いに、裕樹が怪訝な顔を見せた。
「変な琴子」
「いつものことだろ」
隣に深く腰かけた入江くんは、あたしを横目でちらりと見てから、カップを口へと運んだ。
つられてあたしも一口飲む。甘酸っぱいローズヒップティはとっくに冷めて、酸味が強い。
ほっぺたをきゅうとつねられるようで、飲み込むと喉に沁みる。
二口、三口と進めると、舌がピリピリと痺れた。
「すっぱい」
「ばーか」
入江くんに悟られてはならない。
あたしはソファに深く腰かけて、姿勢を正した。
その時、訝しげにこちらを伺っていたおかあさまが、ぽんと手を付き、「そうだ」と素っ頓狂な声を上げた。
「もうすぐバレンタインねぇ!」
あたしは、体が飛び上がらんばかりに驚いた。
両足で踏ん張って、膝に手を付き、肩を張る。
横で入江くんの視線を感じたが、あたしは自分の口から飛び出しそうな心臓を押さえつけるのに精一杯だった。
「今年はどんなパーティにしようかしらっ」
「こ…今年はあたしが全部作りますっ」
シミュレーション通りではないけれど、今言い出さなくては。
声を裏返して大きな声を出したあたしに、家族のみんなの視線が集まる。
あたしは必死だった。
「どうして?」
「ええええっと」
「無理すんなって」
入江くんが、本に目を落としながらつっこみを入れてくる。
「今年は外れか…」
裕樹が、新聞をガサリと広げた。
「えええっと、実は患者さんにパンナコッタがいて」
「パンナコッタ?」
「美味しいお菓子を作る人みたいなんですけど」
「パティシエね」
「バカ琴子」
優しく訂正してくれるおかあさまの隣で、裕樹がまたも悪態をつく。
入江くんは、ずっと黙って本を読んでいた。
「とにかく、任せてください!」
「何かたくらんでるな」
裕樹の言葉に、入江くんが「わかりやすい」と続けた。
「!!!いいのよ琴子ちゃん!!」
「ごめんなさい気づかなくて!」
おかあさまが申し訳なさそうに手を合わせた。
「おにいちゃんと二人っきりでバレンタインを過ごす計画でも立ててるんでしょう?」
「え…いいえー」
「怪しいわね」
「本当に怪しい」
「琴子ちゃん、どうかしたのかい?」
入江くん以外の視線を集め、居た堪れなくなったあたしは、隣の入江くんに助けを求めた。
「入江くーんっ」
「俺、寝る」
「あわ、私も一緒に寝るっ」
ハードカバーの本に指をはさんで、入江くんが立ち上がる。
あたしはあわてて入江くんの後を追った。
「まっ、熱々ねっ」
「生々しい…お兄ちゃん、それ読み終わったら貸してね」
「そ…そんなつもりは」
顔に両手を当てて熱くなった頬を押さえていると、入江くんがいつのまにか廊下へ消えていた。
「入江くん、待って!」
どうしても一人で成功させたかったけど、入江くんの手を借りるしか手立てはないようだ。
あたしは寝室へと急いだ。
続く
2008年9月28日