一口、二口。
薬でも飲むようなしかめっつらで、琴子がカップを口へと運ぶ。
意味もなくスカートの端を引っ張ったり、スプーンを手に取りしばらく遠くを見たと思ったら、素っ頓狂な声を上げておふくろとはしゃぐ。
裕樹が、やれやれと目配せをする。おにいちゃんなんとかしてよ。バレンタインデーごときで、いつもいつも。バカ琴子ー。
「ほっとけ」と目で合図し、俺は自室へと向かった。
◆
ベッドサイドの明かりを引くと、階段をどたばたと駆け上がる音が聞こえた。
「入江くんったら!」
ドアを後ろ手で閉め、琴子が胸に手を当てて上目で俺を見る。
「願い事なら他をあたってくれ」
「入江くんにしか頼めないのっ!…って、なんでお願い事があるって分かったの?」
「見てりゃわかるよ」
えへへと頭をかきながら、ベッドによじ登る。
「白?」
「やだっ」
抱き寄せると、腕をクロスにして胸を隠し体を捩じらせる。
動きを封じ込めたくて腕に力を込めると、琴子はほうっと息を吐き、体の左をぺたりとつけて丸くなった。
そのまま横抱きに膝に乗せると、両腕を首に回してくるから、俺は琴子の髪の毛に顔をうずめた。
嗅ぎ慣れない柑橘系の甘ったるい匂いが鼻をくすぐる。そういえば、昨日自慢げに「新商品なの」と話していた気がする。
「…入江くん、もうすぐバレンタインだね」
「そうだな」
耳に口をつけると、きゃっきゃと笑って腕を緩めた。
琴子の目が、また上目がちに俺を見る。
「早く言えよ」
「えー…えっと」
「聞くだけ聞いてやる」
俺が聞く耳を持たないとでも思っていたのか、面を食らった顔をして顔を上げた。
「ホント!?」
「…寝るか」
服の下に手を潜り込ませると、琴子は弾かれたように体を起こした。
「いっ…言います言います」
「あのね、バレンタインの日って、その、あたしすっかり忘れちゃってて」
「そりゃいいんじゃねーの。ありがたい」
要領を得ない会話と、少なからず拒絶されたことにじれ、頬に手をかけてなかば無理やり顔を近づけると、両手で胸を軽く押される。
ぷうと頬をふくらませて、キッと琴子が俺の目を睨んだ。
「そうじゃなくって!!…わかってるんでしょ、入江くんったら」
「…今更だろ」
「…だよね」
「祝う歳でもねぇだろ」
女はどうしてこうもイベントごとに拘るのか、理解しがたい。
毎年同じ日にやってくるクリスマス、バレンタイン、そして誕生日。
取り立てて変化が起こるわけでもなく、意識しなければ過ぎていく日常。
その節目節目に、我が家の女は必要以上にはしゃぐ。
「いくつだって関係ないのよっ。あたし、いつもおかあさまに、してもらうばっかりで…」
「で、落ち込んでんの」
「うん…」
どうしよう、搾り出すように一言つぶやくと、体を摺り寄せて、すんと鼻をすすった。
「あたし、おかあさま大好き」
「…それ言ってやればいいんじゃねぇの」
ぽんぽんと背中を手のひらでなだめると、琴子は顔を俺の胸にすりつけながら、かぶりを振った。
「それだけじゃ足りないくらい大好きなの」
「おふくろの喜ぶ事なら、一つ思い当たるけど」
「えっ!?何?」
琴子が、目を輝かせて顔を上げた。
先ほど潤んだ瞳のなごりが、目尻にこぼれている。
頬は俺の服にこすれたのか、赤らんでいて、睫毛についていた涙の粒が、その目の下にぽろりと零れ落ちた。
「子作り」
「やっ、何よもう〜!そうじゃなくって」
身体を力任せにかき抱いてベッドに押さえつけると、またもぷぅと膨れた頬に唇を落とした。
「それしかねぇだろ」
琴子は横を向いたまま。長い栗色の髪の毛が揺れる。
「…もういい!寝るっ」
「そうだな、寝るか」
首筋に唇を這わせると、いじわる、琴子のつぶやく声がした。
「今更」
俺は手を伸ばしてランプの明かりを消した。
続く
2008年10月29日