廊下から、パタパタと足音が聞こえる。
ドアが開いた時、あたしは二人に目配せすると、大きく深呼吸をした。
「あ、おとうさんにおかあさん、おはようございます」
「あら琴子ちゃんにおにーちゃん、裕樹も、早いのねぇ」
おかあさんに続いて、おとうさんが眠たそうに「おはよう琴子ちゃん」と伸びをしながらリビングに入ってきた。
「そっ、そうなんです」
あたしは、努めて冷静に答えた。
「…五時にたたき起こされてリハーサルさせられたんだよ」
あたしたちに背を向けてソファに座りなおすと、裕樹が悪態をつく。
「えっ」
「あわわわ、なんでもないですっ。こら裕樹っ」
「おにーちゃん、新聞とって」
入江くんは、盛大にため息をつくと、呆れたようにあたしを見て、それからテレビのスイッチを入れた。
「ささ、おかあさん、パンがいいですか?焼きますよぉっ」
冷静に冷静に、と思っているのだけど、手足の関節がうまく曲がらない。
ロボットみたいな動きのあたしを、心配そうに見つめながら、おかあさんが椅子に座った。
「え…じゃあ、パンもらおうかしら」
「はい!…裕樹くん、パン焼いて」
「えー、なんでだよお前がやれよ」
「いいからっ」
あたしは、無理やり裕樹を台所に引っ張ってくると、エプロンを渡した。
「あたしは色々あるのっ」
わかってるでしょ?小声でささやき、入江くんの分のコーヒーを持ってソファへと向かった。
「僕もパン貰おうかな」
おとうさんが、椅子を引いて裕樹に話しかけるのを横目で見て、あたしははじめて、おとうさんには何も言っていないことに気がついた。
今日は、一日空けてくれないと、せっかくの計画が台無しになってしまう。
「あっ、おとうさん!!」
入江くんのコーヒーを勢いよく置いて駆け寄ると、びっくりした顔をしておとうさんがのけぞった。
「な、なんだい、琴子ちゃん」
「今日、会社で会議とかってありますか?」
「ないけど…」
「おとうさん、今日はおやすみしてくださいっ」
「…おい、僕たちに今日休ませて、散々朝からリハーサルさせときながら、パパには言ってなかったのかよっ」
「うるさい裕樹っ!色々忙しいのよっ」
両手に二人分のパンを持った裕樹をテーブルの反対側に押しやると、あたしはおとうさんにすがりついた。
「おとうさん、今日はバレンタインですよっ!おとうさんは働きすぎなんですっ!今日くらい、今日くらい…」
「う、うん。急ぎはないから、今日は休むかなぁ。あはは」
「ありがとうおとうさんっ、ささ、早く食べちゃってくださいっ」
あたしはほうっと安堵のため息をつくと、裕樹をテーブルに引き戻した。
「…なんか、変ねぇ。琴子ちゃん」
「あいつはいつも変だよ」
おかあさんの心配そうな声と、裕樹の不機嫌そうな声を背に、あたしは足取りも軽く、ソファへと向かう。
おかあさん、ごめんなさい!数時間後にはパラダイスが待ってますから!
にやけ顔を手で押さえながらソファに座ると、入江くんが口だけで「ばーか」と言っていた。
◆
時計の針が8時半をまわる。
あたし、学校を休ませた裕樹、仕事を休んだ入江くんとおとうさん、そして家事を全て取り上げられたおかあさんは、コーヒーを飲みながらテレビを見ていた。
そろそろ決行の時間。
あたしは、ドキドキして今にも飛び出しそうな心臓を押さえながら、意を決して、おかあさんに話しかけた。
「お、おかあさん、今日って、な、何の日でしたっけ?」
「え…バレンタイン、よね?」
他に何かあったかしら、おかあさんが首をかしげて考え込んでいる。
今が…今がチャンスだけど、あたしはふと我に帰ってしまった。
こんなに素敵で、いつもよくしてくれるおかあさんに、飛びかかるなんて、やっぱりあたしには出来ない。
でも、このプレゼントは内緒にしておきたい。
あたしは、どうしたらいいのかわからなくなってしまった。
うつむいたまま、どう行動を起こすか思案していると、入江くんがふぅとため息をついて、あたしの頭をぽんと撫でた。
顔を見上げると、やっぱり口元は「ばーか」と言っている。
「おふくろ」
「なに?おにいちゃん」
「琴子から話があるそうだ」
「えっ」
「入江くん…」
ストレートに話を進める入江くんに面を食らっていると、裕樹がブーイングを始めた。
「おにーちゃん、せっかくリハーサルしたのに」
「話が進まないならしょうがないだろ」
ほら、と促されて、あたしはおかあさんと見つめあった。
「お、おかあさん、今日は、連れて行きたいところがあるの」
入江くんがあたしを見つめているのがわかる。
きっと、大丈夫。そんな気がした。
「私を?どこに?」
物言いたげなおかあさんの手をぎゅっと握ると、あたしは、その手を引っ張って一緒に立ち上がった。
「それは、秘密なんです!おとうさん、車出してもらえますかっ?」
「いいけど、僕も行って良いのかい?」
「みんなで行かないとダメなんです!」
◆
ディナーの仕込をしていたおとーさん、その後好美ちゃんをそれぞれピックアップして写真館に着いてから、あたしはおかあさんにネタ晴らしをした。
今まで、知らなくて申し訳なかったということと、今日は心から、誕生日を祝いたいということ。
おかあさんは、涙を流して喜んでくれた。
その時あたしは、今日一日はおかあさんの為に過ごそうと決意を新たにした。
大きなシャンデリアが吊り下げられた衣装室には、左右に棚がくくりつけられており、キラキラと輝いている。
右の棚にはシルバーが眩しいティアラが所狭しと。
左の棚には、純白が眩しい真珠や、ゴールドのアクセサリーが。
そして奥のドレスコーナーには、ウエディングドレスやカクテルドレス、コスプレ衣装に着物に…。
どれでも好きに着ていいと言われたので、あたしはおかあさんと好美ちゃんと、きゃあきゃあ言いながら、あれこれと衣装を選んでいった。
「琴子ちゃん、これ、メイドさんじゃない?似合うと思うわっ」
「おかあさんこそ、きっとお似合いだと思うのっ。このシンデレラ!」
「琴子先生、あたし綾波レイにするっ」
三者三様、統一感の無いバラバラの衣装でスタジオに入ると、男性陣はそれぞれタキシードに正装して、後ろに固まってたむろしていた。
入江くんの後ろ姿が、目にまぶしい。
入江くんは正装する時くらいしか、髪の毛を弄らない。
でも、後ろに流して、額を出すこの髪型はあまりにもかっこよすぎるから、このくらいがちょうど良いのかもしれない。
うっとりと見つめていると、入江くんが振り返って、その端正な顔をゆがめてつぶやいた。
「おふくろ…本気で、歳考えてくれ」
おかあさまは、ウィッグをつけて夜会巻に髪をまとめ、背中の大きく開いた、水色のふんわりとしたかわいらしいドレスを身にまとい、頭にはかわいらしいティアラをつけている。
「あらー、なによおにーちゃんったら。せっかく衣装を選べるのに同じような格好しちゃって」
おかあさんの声に気づいて裕樹が振り向き、入江くんに似た顔を歪ませて同じようにつぶやいた。
「好美…なんだその格好」
「えへへ…プラグスーツっていうみたい」
「せめてドレスにしろよ!なんだよそれ!」
好美ちゃんは、体にぴったりとフィットした、アニメのコスプレ衣装を着ていた。
コスプレコーナーに付き合っていたあたしは、おかあさんに勧められたメイド服を着ていた。
紺色のふんわりとしたワンピースの上に、白いフリルのエプロンをつけて、同じく白いフリルいっぱいのカチューシャをつけたのだけど…。
「なんだか、ナース服とあまり違わない気がしてきた」
自分の衣装を見つめてため息をつくと、おかあさまが励ましてくれた。
「そんなことないわ、琴子ちゃん、かわいいわよっ」
そろそろお願いします、カメラマンさんが声をかける。
あたしたちは、互いの顔を見つめて笑いあうと、ライトの煌々と当たる場所へと急いだ。
◆
あたしとおとうさん、おかあさん、おとーさんに入江くん、裕樹で写した写真と、好美ちゃんが加わった写真。
おかあさんは本当に喜んでくれて、おとーさんの料理も美味しくて、最高の孝行をすることが出来たと思う。
家族全員、6名+1名の映る写真を眺める。
本当は、このときもう一緒に居たんだよね。
「家族って…いいよね」
いずれ、きっと好美ちゃんも、正式な家族になるだろうけど、それより先に…。
あたしは、まだ膨らみの目立たないお腹を優しく撫でた。
「早く、一緒に映りたいね」
春が来て、夏を過ぎ涼しくなる頃、あたしたちはもう一人の家族を迎える。
了
2008年11月19日/2009年2月12日全篇再up